(連載再開にあたって、今までの分を再掲します)
私だって恋がしたい ~脳性麻痺の女の子のラブストーリー~
第一章 早すぎた誕生
1
生と死の境が定かではない羊水の中に浮かんでいるまだまだ未熟な胎児は、目を閉じたまま自分の親指を吸っていた。胎児には直線に進んでいく時の感覚はなかった。ただ母親の心臓の鼓動の穏やかなリズムが無限に円環していた。
母親の胸を突き上げる「ああ、我が子を孕んでいるのだ」という喜びも、「異質なものを内部に抱えている」ことへのふいに訪れる破壊衝動も(若い母親はそれを無意識に押し込んでいたため、それはただ身体だけを通して悪阻という形を呈したのであるが)、脈打つ赤い血液となって胎児に流れ込んだ。
それらのすべてを胎児は前頭葉の目覚めなしに全身であるがままに感じていた。生と死の境界のない世界から、形ある、愛も憎しみもある世界への出発はもう間近に迫っていた。母親の鼓動が乱れ、子宮が胎児を圧迫するほど収縮する。
胎児は忽然として目を見開いた。と同時にその脳の中にも最初の光が薄暗いカンテラのように灯った。
カン!と鹿威しの竹筒が石を打ち付ける音がした。
それはまだ人間としてのいわゆる意識という定型を持つほどのものではなかったが、脳神経パターンにエマージェンシーを知らせるパルスが光って走り、胎児は目覚めた。
本能だけが時の早すぎることを知っていた。今、外界に放り出されるのは、人工衛星の中から暗黒の宇宙に投げ出され、命綱が切れ、果てしなき漆黒に吸い込まれてしまうのに似ている。
準備の整った船が慌てず騒がず、潮風を孕み、ゆっくりと港を出ていく穏やかな船出とは異なる。暗い産道に有無を言わせぬ力で押しつけられながら、胎児はパニックに陥った。あれほどの穏やかな羊水の漂いの中で、夢から覚めたとたん、まだ生を知らぬ胎児に、死が迫っていた。
ゆっくりと産道を回転しながら広い肩幅を出口の縦の亀裂に合わせられるように回転していく予定だった。だが、その準備が胎児に出来てはいなかった。微睡みはまだまだ続くはずで、準備の期間はほころびる蕾みのように保証されるはずだった。だが、その時が突然訪れたため、母胎と胎児の共同作業はリズムのずれを深めるばかりであった。
焦るほどに事態は混乱し、緩やかにたゆたっていたはずの臍の緒までが無用に首に絡みついた。使い方すら知らない手の指で胎児はそれを振りほどこうと首に手をやった。だが、水かきが消えたばかりのその手は羊水をかき回すばかりで、首に届くことすらなかった。
2
海に棲む魚にとっては大気は窒息死を意味する。胎児はその死の世界に頭の先を覗かせていた。わずかに生え始めた頭髪が血にまみれ、膣口の出口が開くたびに空気に触れてその頭頂だけが乾いた血糊に変化し始めている。
何度目かの収縮の果てに胎児はついに首を死の世界に突き出した。白いビニール手袋をはめた女性医師の手がその頭を鷲づかみにし、強引に引きずり出す。母親は我知らず遠吠えのような声を上げた。だがまだ未発達な肩の部分がずるりと抜け出すと、これまでの痛みを伴う長いいきみなど嘘のように胎児の体は血の海を滑るようにズルズルと瞬く間に引きずり出された。
胎児は観念して死を受け入れた。羊水の中に揺蕩う至福の生が終わりを告げて、死の世界に釣り上げられたことを受け入れる以外に彼女自身には何の選択肢もなかったのだ。彼女? そうあらかじめ超音波写真で予告されていたとおり、胎児の生はFEMALEであった。母親の女性ホルモンの影響で陰部は花が爛れたように外に剥き出しになり、女児であることを主張している。
医師の手は白いリネンの上で、首に巻き付いた臍の緒を急いでほどいた。解ききっても泣き出さない。ここでは肺呼吸をすることが新しい「しきたり」であることにまだ気がついていない。誕生をむしろ死と感受し、あきらめ果てたようにぐったりしている。その肺の中には飲み込んだ羊水が詰まっていてそれもまた新しい世界での「しきたり」を邪魔している。
医師は乱暴とも思える仕草で新生児を逆さづりにし、背中を叩いた。変化は起こらない。呼吸の途絶えているこの一分一秒がシリアスな意味を帯びていた。酸素欠乏によって、脳細胞は一刻の猶予もなく、崩壊し始める。
医師の新生児の背中を打つ手が徐々に激しくなる。もちろん打つことにもそれなりのリスクがあり、力任せというわけにはいかない。絶妙のバランスを探りながら、医師が懸命に新生児の背中を打つ。新しい世界での「目覚め」を呼びかけているのだ。
げぼっと新生児が液体を口から吐き出した。リネンの上にぬめった液体が染みになって広がる。一瞬の静寂。だが、次の瞬間にはか細い声で新生児は泣き出した。
「おお。よしよし」
言いながら医師は新生児を胸に抱く。左手で新生児を胸にかかえたまま、産湯に片手をつけて温度を確かめ、ゆっくりとかき回すと、新生児をつけ、血糊を洗い流す。湯につかりながら、新生児はこちら側の世界にやってきてから初めて、微かなアルカイックスマイルを浮かべた。
看護師がキャスターで運んできた保育器の蓋を開けた。医師はタオルでくるんで産湯をふきとった新生児を両手で神への捧げ物のように運ぶと、保育器の中にそっと横たえ、プラスチックの蓋を下ろした。シューという音と共に新鮮な酸素が保育器の中に満ち始める。
このように人の言葉で表現することが許されるならば、混沌とした無意識の知覚の中で、新生児はエデンの園は追い払われたものの、ここは即地獄というわけではないことを直感していた。気体としての酸素というまったく新しい安らぎが肺の中に満ち渡り、血流に乗ってゆっくりと全身を経巡る。
それはまもなく脳血流関門を越え、壊死し始めていた脳細胞に天上の賛美歌を届ける。
3
保育器の内部はほんの少しだけ子宮に似ていた。だがそれは真空の宇宙空間を漂流する棺桶のような小舟に過ぎなかった。その外部に適応できない、か弱い生き物に過ぎない新生児は、薄いプラスチック一枚隔てて押し寄せる真空の死の世界の広大さをひしひしと感じ取っていた。
それでもとりあえずこのカプセルの内部には酸素が満たされ、鼻に挿入された管からは栄養剤が流れ込んできた。保育器に設けられた腕を通すことのできる穴から侵入してきた母親の手によって初めて愛撫されたのは二四時間が経過した後であった。その情愛に満ちた温もりは、物理的ではないエネルギーの奔流として新生児の体を経巡った。
やがて外部から差し込まれた手に握られた哺乳瓶からミルクを飲むことが許可された。微かに甘い、生温かい液体が胃の腑を満たすと、臍の緒が切断されてから長い間見失っていた活力が体を目覚めさせた。本能的に哺乳瓶の乳首に吸い付く新生児の唇の力は、力強かった。また彼女はその哺乳瓶をつかんで離すまいと両手でつかんで握りしめようとした。
柔らかい乳房の弾力を生き物の性でまさぐり求めていたもみじのような手は硬質な容器の感触に失望した。それでもその手が哺乳瓶を握りしめようとする力は、霊長類が母親にぶらさがり、その母親が樹木から樹木へ鳥のようにジャンプしてもけっして胸から墜落することのないあの信じられないほどの握力と同じだった。
保育器室には漂流する宇宙船が工場のように並んでいて、その間のリノリウムの通路を白いナースシューズがひっきりなしに行き来していた。せわしなく小走りに通過するシューズは時折り床との摩擦でキュキュという説明金切り声をあげた。
まだ名前のない新生児たちを看護師たちはカプセルの番号で認識し、宇宙船内部の温度や酸素濃度、小さな命の栄養状態を管理し、モニターしようとしていた。その担当者は短い引き継ぎのたびに機械的につぎつぎと入れ替わった。
こうして多忙を極め、昼夜入れ替わり続ける看護師たちのわずかな不注意が、いくつかの偶然の重複を見せることによって、その緊急事態は訪れた。
陸に上がったはずの両生類がせっかく始めた肺呼吸。そのやっと新天地を発見した肺臓へ再びぶくぶくと水が流れ込んでくるような息苦しさが胎児を見舞った。小さな体は暗い海のそこへゆらゆらと沈んでいき、水面の上空の眩しさが急速に遠ざかっていく。不足する酸素にあえぐ脳細胞が壊死を始める。
ならんだ宇宙船の中、一本向こうの通路を通過していく、そのことには気づかない無頓着なエンジェルの白い影。新生児は、不可逆な道を転落し、深い海溝の亀裂の中を沈んでいく自らを光の方向に浮上させるためのどのような手段も自らは持ち合わせていなかった。
紫色に変色した顔色に気づいた何人目かの看護師が慌てて酸素濃度を調整し、医師に報告した時には、愛も罪もまだ知らない柔らかい脳はいくつかの回復不可能な境界線を越えていたのであった。
未熟児が保育器内の酸素濃度調整のミスによって発症していまった脳性麻痺。残念ではあるが、ありがちな運命が、名前も自意識もない生命体をあらかじめ鷲づかみにした。それは彼女が、沙織という美しい名前を得て、差別したりされたりしながら生きる人の仲間という悲しい長蛇の列に加わるよりも以前に、前もって決定されてしまった試練だった。
高まる酸素濃度の中で深い海の底から浮上しながら、彼女は、苦しい引きつりを再びアルカイックスマイルに変容させた。
目の大きな鼻筋の通った顔が浮かべたその笑みは、沙織が後に「身体障碍の女優」としてデビューする未来を先取りして、窓からの光の中で一瞬の光芒を放った。
第2章 初恋
4
制服のカッターシャツのボタンを、ひとつまたひとつ外していくごわごわした男の手。胸襟を開いた先に現れた沙織の16歳の肌は、同じ歳頃の乙女たちの中でも一際艶々と輝いていると言っても過言ではなかった。その陶磁器のような輝きに置かれた男のくたびれた手の甲はいかにも不似合いで、だからこそ、それをモチーフにした一幅の美術作品のようにも見えた。
目の大きな美しい少女に育った支援学校高等部の女生徒の沙織の衣服を今剥ぎ取ろうとしている男は病虚弱児学級中等部で担任を勤めた教師だった。在学中より彼女の美貌を眩しいものに感じてきた谷口は、女子高生となった沙織を呼び出し、彼女を全く知らなかった世界へ連れ込んだのだった。
「先生、本当に私で・・・」と
言おうとした沙織の唇を、その台詞の半ばで谷口の煙草くさい唇がふさいだ。ホテルの部屋の有線のチャンネルは谷口によって一〇代の女性アイドルたちの歌う、軽快な音楽が続くものに設定されていた。その中には女子高生が教師をくすぐるような、からかうような挑発的な歌もあった。
沙織はラブホテルというところに足を踏み入れたこと自体がもちろん初めてであったので、枕元の有線チャンネルが多くの選択肢を持っていることも知らなかった。谷口がそのような歌を好んで選んでいるという性癖についても思いを巡らせる余裕はなかった。
独身のまま四〇代を迎えた谷口は二〇年近くに及ぶ中学高校の教員生活の中でずっと十代の少年少女たちを見つめてきた。若い世代は、体がこちらに近づくだけで、肌の下を流れる血潮の音が聞こえるような勢いがあった。そんな彼ら彼女らが身辺にいるのが、彼には当たり前だった。
何度か見合いをしたことがあったが、婚期を視野にいれて見合いに踏み切った女性たちの肌の張りが谷口には気にいらなかった。彼にそのような苦言を呈する余裕も権限もあろうはずはなかった。またすべての教員がそのように感じるものではないことは、もとよりである。そこには性癖というしかない、動かしがたい人間の業が小暗く横たわっていた。
だが、現実には、十代の少女たちは谷口にとって恋人にすることなど不可能な存在であり続けた。それでも二〇代の頃は何度かあらぬ試みに走ったこともあったが、手痛いしっぺ返しを食らうに終わっている。
病虚弱児学校中等部への転勤辞令を受け取ったとき、谷口は暗澹とした。もはや弾けるような健康にあふれた美しい少女たちとは触れ合う機会さえ奪われたのか。
だが、沙織が入学してきた時、谷口は細胞がざわついた。沙織の美貌は一三歳の入学時でさえ同級生の群を抜いていた。彼女が松葉杖を用い、体をくねらせながら足を引きずる身体障碍でなければ? 谷口は自分が好きなテレビのアイドルたちと重ね合わせて、「劣らない」と独りごちてほくそ笑んだ。
十六歳になったその沙織を今、谷口は三年越しの恋で自らの体の下に組み敷いている。いつまでも味わっていたい柔らかい唇の感触から息を継ぐように離れると、沙織はやっと言葉の続きを発することができた。
「いいの? 本当に私で」
沙織は自分が、障碍のない「健常者」と呼ばれる男のひとりに選ばれる日が来るとは、これまでの人生の中で一度も想像したことがなかったのだ。
谷口はそれには答えず、カッターシャツを大きく開ききり、そこにまろやかに広がった両の乳房をつかんで揉みしだいた。そして桜色の初々しい乳首に歯をたてた。
これから始まることが何なのか。
友人たちとも孤立した思春期を過ごしてきた沙織は殆ど何も正確な知識を持っていなかった。ただ、今までに経験のない痺れるような感覚が、肌の上をさざ波のように走っていくのを感じた。その波紋は全身を覆いつくしていき、左足がゆがんでいること、松葉杖に頼り体を左右に揺らすことによってしか歩けない自分が、ひとつの完全な形をした光の繭に包まれる。
(私が完全体になる)
沙織の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
5
男と女の秘め事のすべてを沙織は谷口に学んだ。想像もしていなかったその行為の間、沙織の脳裏には花から花へと飛び回る蜜蜂の姿とその羽音が聞こえていた。この星の上に生きる生き物たちの歓喜の歌の合唱隊に沙織は参列していた。
聞きかじったいくつもの噂話の複雑なジグソーパズルが奇跡のような速さで次々に嵌まり、完全な一枚の風景が目の前に広がった。どこまでも続いている色とりどりの花園の上を沙織は翔んでいた。
行為が終わっても沙織の体にしがみつくようにしばらくじっとしていた谷口が、ひと心地ついたのか、体を起こし、ベッドの端に腰掛けると煙草に火をつけた。沙織は枕元に谷口が乱暴にばらまいていた自身の下着や服をかき寄せると、身につけはじめた。
ふいに振り返った谷口がそれを見ると
「なに、してんねん!」
と怒気を滲ませた声で言った。沙織はわけがわからずただ鼓動を高鳴らせて目を見開いた。
「誰が服、着てええって言うてん」
「えっ。あかんのん?」
「オレが服、着てええって言うまで着るな」
そうか。谷口が剥ぎ取ったものは、谷口がいいというまで元のように身につけてはいけないのか。それが男女のしきたりなのか。
沙織はそれについても何も知らなかったので、それがこの世界の決まりなのだと信じた。
「ごめんなさい」
そうしてそのまま艶やかな裸体のまま、ベッドの上に恥ずかしげに横座りしていた。
後に沙織がほぼ同世代の彼氏と付き合ったとき、信じていた「しきたり」通りに着衣の許可を待っていると、彼は怪訝そうに彼女の姿を見つめて
「なんで服着いひんのん?」
と首をかしげた。
「えっ、着てええの?」
沙織から過去の習慣を聞いた彼は
「かわいそうに」
と言うと、沙織を抱き寄せ、手にとったブラジャーを背中に回してホックを填めてくれた。
「着てええねんで。大事な体が冷えるやろ」
言いながら彼は自分の着衣もそこそこに沙織に服を着せてくれた。
世の中には色々な男がいて、しきたりややり方、激しさややさしさにも、無数のバリエーションがあることをそうやって沙織は学んでいった。
谷口はどちらかというと充たされない恋愛生活を送ってきた男だった。その積もり積もった不満が、初めて自分より下に見ることのできた沙織という少女に対する居丈高な態度に現れていた。
しかし、何もわからない沙織は、それを男と女の普通の関係だと信じて、何もかも谷口に合わせて付いていった。
大人になった沙織が後に振り返るとき、この谷口への思いは何度考えても複雑だった。良いようにもてあそばれたという考えが膨らんでくると、「今の自分なら訴えてやったのに」という憤怒がふつふつと湧いてくることがあった。だが、一方、何も知らなかった自分に初めての扉を開き、何もかもを教えてくれた男へのひとかけらの感謝の念を覚えないでもなかった。
ある時、谷口はいつものように行為のあと、ベッドの隅でひとりで背を向けて煙草を吸っていた。沙織は長い間、口に出来なかったひとつの不安を、その谷口の背中に向かって投げかけた。
「わたし、高校卒業したら・・・・どうしたらええのん?」
谷口は煙草をテーブルの上の灰皿に押しつけて消すと、少し怒ったような声で言った。
「心配せんでええがな。うちに嫁に来たらええねん」
「ええのん?」
「初めからそのつもりや。そやないと、こんなことにはならへん」
沙織はその言葉もまた信じた。女は最初に結ぶばれた男と結婚するという素朴な考えも、その時の沙織には「女性は行為のあと、男性の許可があるまで服を着てはいけない」という決まり事と同じように、ただただ信じるしかない「この社会のしきたり」なのだった。
6
谷口から「新任の英語の先生と恋に落ちたから別れたい」と告げられたとき、沙織は世界が白黒になってしまったように感じた。これならまだ何も知る前、何も期待していなかった時の自分の方が心が穏やかで満ち足りていた気がする。
そう告げておきながら、谷口は「最後にもう一度」と言って沙織の体を抱いた。沙織の体は谷口によって目覚め、谷口によって開発され、谷口の愛撫に応えるように完成されていた。
彼の熱い手が通ると肌は焼け、彼のたぎり立つものが貫くと体の奥が痺れた。
(私の人生でこれが最後なのか)
沙織は本気でそう考えた。二度と「健常者」との恋愛という「珍事」は自分の人生に起こらないだろうと思えた。それは障碍を持つ女生徒を受け持った教師との恋愛という条件下でだけ、人生に一度限り生じたイレギュラーなのだとしか考えられなかった。
行為を終えると、ベッドの上で抱き合ったまま、谷口はそんな沙織の心理を見透かしたかのように囁いた。
「おまえは障碍者やけど」
谷口は言った。
「めちゃ綺麗な顔してる。笑顔もかわいいし、肌も艶々してる。そやから・・・またきっと恋ができる。たぶん今度は、オレのようなおっさんではなく、同世代の男と」
確かにこれまでにも沙織は学校や病院で同世代の男子から淫靡な目で見つめられたり、プレゼントをもらったり、「結婚したい」と拙い金釘文字で書いたラブレターをもらったことさえあった。
しかし、それは皆、沙織よりももっと重度の障碍を負った男子からだった。
沙織はテレビで流行しているK-popの、イケメンでやさしげな男子たちが、切れ味のいいダンスに跳びはねる姿に憧れていた。今度、恋愛をするなら、あのような男子たちの誰かがいい。
そのような恋愛ができれば、谷口を忘れられるかもしれない。
しかし、そのようなことは端から不可能と思って生きてきたからこそ彼女は、谷口との初めての恋を、最後のものでもあると信じて谷口にすがってこの八ヶ月という歳月を生きてきたのだった。
「無理やわ」
沙織は両目に涙を浮かべながら、谷口の胸を突き放すように押し返した。松葉杖や車椅子を日常的に操作している沙織の腕は逞しく、谷口は強い力で体を突き上げられた。
「私、もう、普通の人と恋愛するの、無理やわ」
体を起こした谷口はもう何も言わなかった。珍しく行為の後の煙草も吸わず、シャツのボタンをはめ始めた。
「服着てええで」
沙織にもいつもより早くすぐにそう言った。
「どこ行くん?」
沙織はなじるように叫んだ。
「私を傷ものにして、こんな体にして、急にほっぽり出してどこ行くん?」
谷口は応えなかった。
沙織が目を閉じると白黒の画面の中に電子ノイズの雨が降っていた。
サーっというノイズ音が聞こえる。雨は次第に激しさを増していく。時折り、そこに白黒以外の奇妙な彩度を持った光の粒子が点滅する。
ノイズも音量を増していった。ただの電子音と感じられるものの中に、オーストラリアのアボリジニの演奏を聴いたことのあるデジュリドゥの倍音が混じる気がした。
そして突然プチっと何かが途切れるような音がした。
そのとたん、何もかもが明彩を失って、あらゆる音も途絶えて、世界はブラックアウトした。
第3章 孤独
7
誰もが少なからず両親には愛憎悲喜こもごもな気持ちを有している。子どもに障碍がある時、その濃度は通常よりずっと濃厚になるのは避けられない。
未熟児として産まれ落ち、出産初期の保育器での酸素欠乏が原因で、沙織は脳性麻痺による肢体不自由の障碍を負った。その自分の境遇へのやるかたない憤懣をぶつける相手といえば、両親のほかにはなかった。
地域の小学校で沙織は周囲の子どもたちの剥き出しの残酷さにさらされ続けた。左右に体を揺すりながら左足を引きずって歩く姿を物まねされる。「びっこ」「びっこ」という言葉を投げつけられる。嘲笑するクラスメートたちのただ中で沙織のできることは激昂するのとは反対にただ平気な顔をして笑みを浮かべていることでしかなかった。
「びっこっちゅうのは差別の言葉や。今度使てるのを見たら、親を呼び出してきびしく注意するから、そのつもりでおれよ」
強面の学年主任の男の先生がクラスにそう注意しに来てからは、今度は沙織は皆に無視されるようになった。話しかけても誰も答えてくれない。いじめは水面下に潜っただけである。トイレに時間のかかる沙織が教室に戻ると、弁当箱がひっくり返されていることがあった。水筒がわりのペットボトルに誰かが食べた後の梅干しの種が突っ込まれてお茶の中にぷかぷか浮かんでいたことがあった。
「いったい誰が?」と周囲を見渡しても、皆、顔をそらしてしまうだけである。
中学になって、沙織が思いもよらぬ美しい少女に成長しはじめたとき、幼い頃からの知り合いである男子たちの反応は複雑だった。心中は知る由もなかったのだが、少なくとも表面的には、この頃から女子の陰険さと男子の屈折した言動は、相乗作用を起こし始めた。
教室の黒板の前で女子たちの手によって、引き倒され、スカートを脱がされたとき、遠巻きに見ていた男子たちの淫靡な表情は忘れない。
彼らは、助けるか、目を反らすか、様々な選択肢の中を揺れなかったというわけではないはずである。だが、結果的に露わになったパンティや太ももをニヤニヤしながら見ることを選ばなかった者はひとりもいなかった。そのことは、沙織に「先生」と呼ばれる人種以外のすべての男子への絶望として刻み込まれた。
だが、その実、そのような教室の肝心な実態は我知らず、「人権」という内実の不明な言葉を振りかざしては職員室と呼ばれる別世界に引き上げてしまう「先生たち」にも、沙織は密かに絶望していたのかもしれない。
学校で何の抵抗もできず、笑っているか、泣き叫ぶかしかできなかった沙織は、その抑圧された怒りのすべてを両親に、殊に最も優しい母親にぶつけるしかなかった。家の中で、理由も説明せずに突然暴れ出す沙織。母親を殴り、薬缶を投げつけ、包丁を差し向けたこともあった。
母親は理屈には関係なく、ひたすらに沙織に「ごめん。ごめん。沙織、ごめん」と謝るばかりであった。自分の力では押さえ付けることもできないので、床を這いずり回って電話機に辿りつくと、泣きながら父親に電話するのだった。
「お父さん。沙織が暴れてる。早く帰ってきて」
家の中がそんな騒ぎで荒れまくっている間中、四つ年下の弟は自分の部屋に閉じこもり、出て来なかった。
8
小学校の高学年で不登校になった沙織は、中学に進学すると同時に病虚弱児支援学校と連携している病院に入院した。脳性麻痺の治療というよりも、学校や家庭での精神的不安定を主な要因とした入院だった。そして病室から支援学校に通うようになった。だが、そこでもまた人間関係の悩みから不登校がちであった。
出席日数の多寡に関わりなく、年数がたてば義務教育では卒業証書が発行される。そうして支援学校高等部に進学することになった沙織は、退院して暮らしの場を家庭に戻した。さすがに高校生になった沙織は、両親と心理的距離も生まれ、家庭でのトラブル自体は少なくなった。
(そして元担任の谷口との恋愛。
それが破綻すると、結婚と安定した未来というヴィジョンもいっときに崩れ、沙織は自分の将来を真剣に考えるほかなかった。)(省略)
三年次の担任は、未婚のまま支援教育の畑を歩み続けてきた初老の女性教師だった。彼女は、知的な遅れが見られない沙織に、医療事務の資格を取得する専門学校への進学を勧めた。座位のままの作業の多い分野なら、資格を取得してさえいれば一生の仕事としてやっていけるのではないか。
沙織はその先生を信頼していたし、男から自立した生き方に魅力を感じていた。自分も資格を取得し、それを活かした仕事をすることで、谷口のような男に二度と翻弄されない人生が歩みたいという希望を抱いた。
医療事務の専門学校に進学した沙織は、自分の人生も山間の激流からやっとゆったりとした流れの河に出たように感じた。専門学校では、人間関係が濃密でなく、授業をこなし、単位を取得することだけを考えていれば、日々は平穏に過ぎていくのだった。
そんなある日、沙織は一年年上の先輩にドライブに誘われた。
岡本というその爽やかな青年は、沙織を自宅まで車で迎えに来てくれた。予約しておいたフランス料理店の駐車場から沙織を席までスマートにエスコートしてくれた。車を運転する自分は飲まないというのに、ワインは好きだということを車の中でさりげなく聞き出していた彼はその店で一番高いワインを「ちょうどええだけ飲んだらええねん」と言ってグラスで注文してくれたのだった。
コース料理が終わりに近づいて、デザートのシャーベットが出てきた頃、それまでの楽しい会話の流れが途切れたように、沙織は感じた。沈黙に沈んだ岡本が次に何を言い出すのか、しばらく凪のように空気が静止している時間が流れた。
「沙織ちゃん」
それまで名字で滝川さんと呼んでいた女性に向かって、岡本はそう声をかけた。
「週に二つしか、授業が重なってへんけど」
そこでまた言葉が途切れた。
「うん」
沙織はとりあえずそう相づちを打つしかなかった。
「いつも見ててん」
岡本は意を決したようにそう言うのだった。
「好きや」
考えてみれば、谷口からははっきりとその言葉を聞いたことなどないような気がした。沙織は岡本の率直なところを「かわいい」と感じた。
「つきあってほしいねん」
障碍のない同世代の男子から、普通に告白されるのは初めてのことだった。胸の中にふわっと甘酸っぱいものが広がった。
9
岡本と付き合うようになって沙織は谷口がサディストの傾向のある男性であったことに初めて気がついた。例をひとつしか知らなければそれが普通だと信じてしまい、視野を相対化するチャンスを持てない。
谷口がすべての男の代表ではなかったんだ。そんな当たり前のことに二十歳になった沙織はやっと目覚めたのだった。それが「セカンドラブ」の持つ大きな意味のひとつだった。
岡本はいつも沙織を愛車で迎えに来てくれた。二人でおいしいものを食べ、それからホテルでたっぷり睦び合い、また車で自宅まで送ってくれた。沙織は殆ど歩く必要がなかった。松葉杖を使って長く歩くと、腰や股に痛みが走り、就寝時にもそのダメージが残ることが多い。そんな沙織を岡本はとても大事にしてくれる。沙織はそう感じて幸せを噛みしめた。
同世代の男子との恋愛は沙織にまた新たな自信をもたらしてくれた。自分には脳性麻痺という身体障碍がある。けれども一人の女として認め、愛してくれる存在がある。考えてみれば今までも男性から「かわいい」「きれい」「つきあって」と言われることは、周囲の女子よりむしろ多かったかもしれない。ただ、狭い交友範囲の中には、障碍を持つ男子か、教員しか、男性という存在がいなかっただけなのだ。
専門学校という巷に出るようになり、交友範囲が広がると、岡本のような他の女子からも羨まれるような素敵な男性が自分に「好きや」と言ってきた。沙織は鏡を見つめるたび、自分は美しく生まれついたのだという歓びに浸ることができるようになった。男たちの多くがこの私に惹かれる。これまでは両親を恨むことの多い沙織だったが、そんな風な美しい容姿に産んでくれたことにむしろ感謝の念を覚えることも増えてきた。
こうして幸せな月日が流れ、ひとつ年上の岡本は大手の病院の医療事務職の幹部候補としての就職が決まり、一足先に卒業していった。
岡本が就職した比較的大きい病院には同業の医療事務職はじめ、看護婦など多くの女性が働いている。沙織は、いつか、障碍のある自分よりも、岡本が別の健常者の女性を選ぶのではないかと不安でたまらなかった。
が、社会人になってからも岡本は変わらずやさしかった。
「今年はおまえの就職活動の年やな」
いつものように車のハンドルを握りながら岡本が言った。
「うん。がんばってええとこ、見つける」
助手席の沙織は、いつも優しい岡本を頼もしげに見つめ返しながら微笑んだ。
「そうやな。そしたら共働きやし、十分やっていける。子どももつくれるな」
「えっ?」
「ははは。妄想、妄想」
岡本は笑ってごまかしたが、沙織にはまぎれもないプロポーズの言葉としか思えなかった。大きなスプーンに一杯の蜂蜜を思い切りたっぷり掬って舐めたような感触が頬に広がり、胸に落ちていった。
まずはがんばって就職活動しよう。沙織はそう決意を固めた。
就職指導室にも足繁く通うになった。
だが、そこで沙織は新たな壁にぶつかることになった。
ある日、就職指導の中村という五十がらみの男性は、目の前のパイプ椅子に座った沙織に向かって、ごま塩髭をかきながら、こう言うのだった。
「いや、調べたんやで」
「はい」
「いろいろ調べたんやけど、この学校からは、肢体不自由の生徒の就職の前例がのうてな」
「私、座ったままでできる事務仕事を専門にまかされるような大きな病院への就職を希望していて。そういう求人ありませんか?」
岡本の勤める病院の名前が喉から出そうになったが、それだけはなんとかひっこめた。
「ノウハウがあらへんねん。実績があらへんねん。ここの学校の就職指導では、どうしたらええかわからんねん。肢体不自由でも大丈夫やという求人も来てへんしな」
「中村先生。私、就職指導部が頼りなんです」
「そう言われてもなあ。あのな。こういう場合は、直接ハローワークに行ってもろたほうがええかもしれん」
「ハロー・・・・ワークですか」
「そう、障碍者求人の専門家に会うて相談するんや」
「でも、私、この学校で医療事務の資格を取得したんやし、それを活かした仕事の求人はこの学校にたくさん来ているはずだと思うんです」
「障碍がなかったらな。障碍がなかったら、君の言うとおりや」
「この学校では障碍者の就職は世話できないという意味ですか」
「ていうのかな。つまり、障碍者の就職の専門家はハローワークにしかいないということを言うてるんや」
「そんな・・・・私、私は障碍者である前にまず医療事務の資格を持った、この学校の学生です!」
強い口調に、中村は困惑した表情を浮かべている。その背後の就職指導室の壁がぐらぐらと揺れるような気がした。メニエールという授業で聞いたことのある病名が頭に浮かんだ。
「先生。壁が揺れてます」
「そう。だからな。いろいろと体の条件も厳しいやろ。余計にな。見つけにくいねん」
彼は、そんな追い討ちをかけるような台詞を、思慮もなく沙織に投げつけた。