2012年に書いたものです。
K-POPについては一度はちゃんと考察しないといけないと思っている。
はじめてトランス音楽というものと出会ったときに至福だけのために音とリズムを紡ぐという世界に目が覚める思いがした。
それは、覚醒の光に隣接している。
K-POPにはそれはない。
それはないが、もっと表層で、快感だけのためにすべてを構成している軽さに舌を巻くときがある。
そこには、負担になるものがなく、快感のために必要なものはある。
これを説明しよう。負担になるもの
がないというのは、たとえば音楽を作った人の感情的なものの表現がない。
あったとしても希薄なので負担がない。感動がなく負担がない。
これはたとえばハロプロの音楽には少しある。
それは、つんくという人がプロデューサーである前に曲がりなりにもアーチストであり、しかもその感情表現はどちらかというと基本的には「濡れている」からだと思う。
彼がまだ写乱Qだったころの、ズルイ女とか、シングルベッドとかを聞いてみるとわかるが、これは感動する人はするが、めんどくさければ感情的な負担を与える音楽だ。
それがハロプロでも完全には払拭されていないので、一応音楽として感情を聞いてしまうから、そうしたいときにはいいけど、そうでないときはめんどくさいのだ。
まあ、殆どの歌謡曲はそうであるのだが。
だが、K-POPにはそれがないと僕は思う。
だから、負担がない。
そして追求しているのは快感だけだ。
たとえばコカコーラのボトルは女性の肢体をシュミレーションして、男性の脳髄が知らずに反応するようにデザインされているという説を聞いたことがあるようなないようなだが、SISTARというK-POPグループの歌手たちが踊りながら時々静止するポージングはそのような効果が計算されているように思う。
それだけではなく、腰の動きや、手の動きさえ(たとえば自分の性器の中をかき回しているように見えるときがある)すべてが電子的に脳髄の性中枢を打っている感じがする。
しかし、そこに感情移入はないわけだから、それはサワサワと気持ちよくなるのであって、淫靡な重さを生じるわけではない。
もっと卑近な言い方をすると、切なくない。
皮膚の表面がサワサワするだけで、性欲に重くなるのとは違う。
しかし、そこに中毒性がある。
うまく計算されていると思う。
このようなものを作ることについて、現代の韓国が得意になったのにはそれなりの歴史的経過とアートを巡るシチュエーションがあると思う。
これについてはまだ考えたいことがある。
後記
後のtwiceは、このような特色をさらにほぼパーフェクトに実現した。