ミュートの多い書き手の記事をミュートしてない人にも見せない理屈について考えてみよう。
ここには、極端に嫌う人が閾値以上となる場合、たとえ極端に好いている人が一定程度いても、選択されないような決定方法が応用されたように感じる。
しかし、表示という分野には多様性が求められるということが、一方にある。
多様性を求められる分野である「表示方法の選択」にこの思考パターンが採用されると、嫌う人が多いものかもしれないが、私はとても!見たいのだという人の権利が蔑ろになる。
私はこういった決定方法があらゆる分野に向かないと考えるものではない。
だが、たとえば芸術作品の審査には向かないだろう。
文学賞がこの方法で決められるなどはありえない。
たとえ嫌う人も多くとも強烈なインパクトのあるものが選ばれることになるだろう。
もうひとつには、共存の求められる分野で、似た思考パターンをあてはめると、結果的に排除の論理になりかねない。
実例として、ALISであびの記事が閾値を越えるミュートのために、マイページ以外に一切表示されなくなった例を見てみよう。
ミュートしている人には既に見えないのにミュートしてない人にも見えなくする理由はなんだろうか。
たとえば、新規参入者の目に否応なく多く触れるのを避けるという考えはありうる。
なかんずくALISは全体的に過疎なので、たくさんミュートされているのに、一部の読み手に支持されている記事が簡単に上位表示されやすい。
私から見ると原因は過疎だが、結果、ミュートの多い記事なのに上位に並ぶことの見栄えは、理想とはいえないのは、理解できる。
しかし、それを全く見えないようにすると、今度は多様性が損なわれる。
ここで、私に言わせると、上位表示という発想そのものを転換する必要があったのではないかと思う。
一部に強く?支持されているが、ミュートも多い記事という位置づけにおいて、それなりの適切な表示位置を工夫する必要がある。
フォローなどの個人カスタマイズの充実を、単純な上位表示より優先的にする方法もそのひとつだろう。
そのような工夫が、とんがった論や、マニアックな芸術などにもそれなりの位置づけを保証する。
結果、多様性が実現する。
同様に多くミュートされている人のコメントを全面禁止するのは、選択的多様性の工夫が足りないのではないか。
互いが望むやりとりすら寸断してしまう。
たとえば、飽くまでも一例だが、コメント承認機能などの工夫の余地を検討していく必要がある。
つまり、全体として、今回とられた処置(マイページ以外には一切表示しない。コメントの一切を禁止する。報酬を0にする。など)は、多様性共存のあるべき形の工夫の前に、排除を優先してしまったことは否めない。
そうでなくても弱いマイノリティはこれまでも知らないうちに去っていたのだが、今回ついに強いマイノリティまでをも民意の名のもとに排除するロジックを構築し、実装したことになる。
もし多様性が実現しなければ、量と多様性の両面において、表現内容の伸びが悪くなり、
表現メディア全体としての衰退すら招きかねない。