上記に出てくる、soraさんの「サディスティック・クリアライト」という詩は、まずサディスティックとクリアーライトを結びつけたタイトルで、ぶっ飛んだ。
クリアーライトは、詩の中身から見ても、かのニンマ派の出自不明のテルマ(埋蔵経典っていう、都合いいときに出てくるやつ)、俗にエバンス・ヴェンツの訳に基づいて「チベットの死者の書」と勝手にチベットを代表するみたいに訳されたやつ、あれに出てくる死の直後に見る光明のことに違いない。
ヴェンツは、チベット語のオエセル(光明)を、クリアーライトと訳したし、日本ではおおえまさのりの「チベットの死者の書」が一番売れたから(昔の話やけど)、日本人はオエセルを知らなくても、おおえ訳の「クリヤーライト」は知っていたりする。
NHKスペシャルも変な番組作ったし。→「チベットの死者の書」
だけど、マジ、「バルドゥトェドル」(ほんまは「中有において聴聞だけで解脱する書」と訳すべきで、「チベットの死者の書」って超訳すぎるぅ)は出自不明で、ツルティム・ケサン(先輩!)が「これは俱舎論の杜撰な改竄やしぃ」と論じた論文には、説得力がある。(「大谷大学仏教学セミナー51号」)
NHKスペシャルが「チベットの死者の書」を作ったときは、その時点での学問水準を全然踏まえてなくて、オカルト番組になってもた。それを批判する文章を朝日新聞の論説文でツルティム・ケサンが書いたのは、どれだけの人の目に止まったのだろうか???
中沢新一とか、流行の笛吹き男たちもノリノリやったから、後のオウム真理教事件の土壌を築いたという批判もある。
話が長くなった。
とにかく、それでも、文芸だと思えば、「バルドゥトェドル」はおもしろい。
それを踏まえて、
サディスティックな性の極致に訪れる「存在崩壊」(一種の死?)を描いた「サディスティック・クリアライト」って、ぶっとんでるよなーと思いました。
そこに自殺した父君の影が二重映しになっていくのも、すごい。
「大人の恋愛」っていうけど・・・・。(-_-;)
ここまでいったら、対抗できるのはイエローモンキーの「LOVE LOVE SHOW」ぐらいのもんじゃない?
生きていることと死んでしまうことの間の
見えない高い壁が崩れる音は
あの二十歳の夜の父の寝室と
わたしの支配の海で窒息死するおまえの欲情の中でだけ
とめどなく響き渡る崩れていく
人々が越えられないと信じている壁が
悲しみとか
喪失だとか
弔いだとか
冥福だとか
たくさんの飾り物のベールで
覆いかくしている壁がわたしが聞いているのは
世界が崩落していく音
存在が砕け散る滝の
耳をつんざく静寂
この無音を聴いている時にだけ
わたしの中心で
すべての愛と音楽の核が爆発する