近年では、推しエコノミーという題名で、推し文化を啓蒙するシーンが極端に増えている。例えば、Vtuberの台頭や、アニメ文化への憧憬、そして様々なアイドルとのやり取りなどがそれらをブーストさせている。
Vtuberとは、ライブ2D技術を用いてインターネットパーソナリティとして活動するタレントのことで、メタバースやIT技術などに完全に組み込まれた新しいアイドルとして認識されている。しかし、最近では誰でもVtuberのアイコンを模すことができ、その存在はより身近なものへと昇華していくものと思われる。
また、アニメ文化は萌えキャラやバトル漫画などをはじめとしたフィクション作品が源流にあったり、マーベルやDC、ハリーポッターのようなヒーロー、探偵ものが発端となっているサブカルチャー全般を指す。これらはどちらもメインカルチャー(乗馬やピアノ、音楽鑑賞や絵画)とは区別されることがあり、自作音楽やDIYなどもその一部に入ることもある。
一方で、量子力学は19世紀から20世紀に確立した物理学の新分野であり、今日の半導体に関連する技術を語る上で欠かせない学問分野になっている。量子力学は科学にその源流をもち、太陽の黒体放射やニュートン力学から解析力学、そして統計力学へと派生した古典力学の常識を覆した数々の物理現象がもとになっていたりする。
天才物理学者として知られるアインシュタインをはじめ、マックスプランクやニールスボーア、ヴィルナーハイゼンベルク、シュレーディンガー、ポールディラックなどが黎明期に活躍し、その後はウィリアムショックレーやグラハムベル、ノイマンなどが名をとどろかせてきた。
古典力学と量子力学には決定的な違いがあり、ミクロ領域ではエネルギーが離散的になること、粒子性と波動性が併存すること、状態観測が確率的になることなどが挙げられ、それまでは理論的にだけでなくイメージでつかめた科学の描像が一気に崩壊し、あいまいで分かりにくいものであるという事実が浮き彫りになった。
その中でも、不確定性原理という名で知られる現象は有名であり、ハイゼンベルグが提唱し今でもいろいろなものにたとえられることがある。不確定性原理は、量子の位置エネルギーと運動量エネルギーを同時に観測することは不可能で、片方を観測すると、もう片方は観測することができなくなるという事を指している。これは、観測するまでわからないという量子力学の原理に沿ったものであり、観測量は確率として示され、明確にわかることはない。
その不確定性原理において、位置エネルギーと運動量エネルギーを等量に観測できる状態を最小波束といい、それを挟んでどちらかの観測結果が明瞭になっていく。
不確定性原理についておさらいすると、以下のようになった。
位置とエネルギーは片方を明確に定めようとすると、もう片方はぼやけてしまい不明瞭になる。
位置とエネルギーの明瞭度の関係は逆関数の形で表すことができ、それぞれの値が最小になる部分を最小波束と呼ぶ。
推し文化においては、誰を推すかという命題はまさに、推す側と推される側の不確定性が働いていると考えることができる。具体的には、推す側を位置エネルギーとした場合、推される側は運動量エネルギーであり、それらはさらにミクロな弦理論における時間と空間の関係性でもある。
超弦理論は、量子効果を考慮して構築されているため、不確定性原理のような思想も反映されており、推し文化はそれらの理論にも迎合させることは可能である。しかし、ここでは限定的な例しか出さないため、弦理論側の詳細な挙動に対しては不整合が生じる可能性は否めない。
話を戻すが、位置エネルギーが推す側、つまり観客であったとすると、運動量エネルギーは推されるタレントのことを指す。彼らは推し文化においては対応関係にあり、それらが一つになてこの現象を説明することができるため、仮にこの現象が自然的なものであったとするならば、彼らは双対関係にあるといえる。(偶像双対)
そして、その推しキャラが双対関係にある場合、不確定性原理によって最も推しているタレントは、最も推している側から離れていることを暗示する。それは言い換えればオタク側の勘違いであり、本当は避けているわけではないが、オタク側の気違いにより、圧倒的な片思いに終わっているという状態が浮き彫りになる。しかし、これはオタク側が嫌われているわけではなく、オタク側が推し対象に目がなくなりすぎているだけである。
そして、その逆は推し対象がその存在をアピールすることである。この場合、アイドル側のアピールが過剰になり、クライアント側がまるで無視しているような状態になることがあるが、それは上記のオタク同様にアイドル側の存在感が強くなりすぎているだけであり、無視されているわけではない。
上記の2パターンにおいても片方が片方を圧倒している故に起こり、別段どちらの状態でも片方は片方を認識している。そして、最小波束に当たるイーブンな状態においては、彼らは互いが同じくらいのエンゲージメントを掛け合っており、アイドルならば握手会やファンイベント、実像がない対象ならば妄想や陶酔になるのではないかと考える。
しかし、この状態を明確に線引きするのは難解であり、例えば実在しない人物を推しキャラとする場合、推しすぎず推されすぎずの対等関係をどこで判断するかは定かではない。
量子力学の例えば飽くまでも一例であり、上記のような図りずらい状態に対してはそれ以外の方法を模索する必要があるように思える。
最後に、ここまで量子力学に関する知見と、推しエコノミー、推し文化を比較して同意事項とされるものを重ね合わせてきたが、量子力学の不確定性原理は位置エネルギーと運動量エネルギーであったのに対し、推し文化ではオタクとアイドルをそれに重ねた。というより、言い換えれば推す側と推される側であり、それらはどちらも片方が人間である。
このことから、上記のたとえを真だとするならば、オタクとして何かに没頭することは、不確定性原理に基づく自然現象の諸原則のなかに自分も適用されることを意味しており、物理学としての一分野が、推し文化としての何かに代替できることになる。その場合、位置エネルギーと運動量エネルギーはどちらも自然物であり、自分という存在や推し対象も自然な存在だとすれば、不確定性原理を考案したハイゼンベルクは、推し文化の商業的立役者になるのではないかと考える。
つまり、ハイゼンベルクのような物理学者は電子や量子などがどう振る舞うかを調べて体系化したのに対し、推しエコノミーはある程度経済的な動機によって、推す側と推される側の振る舞いが体系化され、アナリストというハイゼンベルグが手玉を取っているともいえる。これは圧倒的に推し文化への皮肉に思えるかもしれないが、先ほど仮想的なキャラクターへの推し関係は不明瞭であり、不確定性原理が適用できるかわからないといったように、万物の理論のように機能するわけではなく、飽くまでも一つの考察として考えているに限る。
今回は推しキャラと量子力学について、それらの関係を影重ねするようなことをしたが、何をしたかったのかといえば思考実験であり、それをここで共有したいという思いがあったからにほかならない。
そして、推しキャラという存在が儚いものではないのか?という疑問があり、量子力学のあいまいな性質との関連についてとりまとめたものが本記事であり、ここで述べた一切の思案についてはまったくもってない。
ただ一つだけ忠告が込められていたとしたらそれは、推しキャラは確かに魅力的かもしれないけど、本当に大事なものを失っていないかという自分への咎めである。