宗教と科学、その関係性を突き止める。
1800年代はまさにイギリスの年だった。1900年代はまさにアメリカの年だったろう。では2000年代はどこの年になるのだろうか?これはもうすでに答えが出ている。それは、中国だ。
こんなことを言うことは最近では少なくない。確かに現在中国はその巨大な力を誇示し続けており、世界の注目の的になっている可能性は大いにある。しかし、世の中はそう簡単ではないだろう。そんな簡単に中国が超大国だとか、アメリカが最強の国だとか言っていいわけではない。例のごとくイーロンマスクは世界で最もお金を持っている人物だが、それがアメリカ人なことと、その他一般のアメリカ人がどんな金銭事情に合って、アメリカが最強なのかどうかは若干別問題だと思うからだ。
これはどういうことかといえば、確かにアメリカは非常に裕福で、ものすごくチャンスに恵まれた国なのかもしれないが、本当にそうかどうかはわからないだろうということである。いくら米国が非常に優れた国だとしても、影響力や国内の経済格差がいい方向に導くとは限らない。確かにそれらの犠牲があるからこそ、現在のポジションにいるのだろうが。もちろん私はここでとんでもない思想を展開するつもりはない。しかし、一度考えを改めるべきだと思うわけである。なぜ米国がいまだに世界最強で、しかしながら中国やインドなどの元覇権国がまたその座を奪いに来ているのかを。
そして、どうでもいいことだが、そういった国としても枠組み自体も少しくらいは疑問を持つべきだろう。現行国家は五日限界が来るだろうということはかねてからいわれていることかもしれないが、実際そうはなっていない。世界で一番最初に産業革命を起こした英国でさえ、まだそうなっていないのだ。確かに一部の欧州の地域では目まぐるしい市民革命の果てに、ものすごい丁寧なサービス展開をしているところはある。例えばそれは北欧だろう。北欧は、現行国家の中で最も先進国に近い国といえる。G7やG20は、なんだか第二次世界大戦という文脈で語られているだけであり、日本なんかでは特にそういった枠組みを大事にしようとする雰囲気があるが、あんなものはただの取り決めであり、枠組みに過ぎない。それに縛られたりそれを持ち上げて誇示したりするのは間違っているだろう。毎回世界のどこかで、しかもたった7つの国で行われるサミットに興味があるのは誰なんだろうかと毎回思う。そんなプライドばかり無駄に高くしていないで、もっと生活の自由度を上げるべきだろうと思うわけだ。
なんだか知らないが、そういった雰囲気は無駄だと思うばかりで、そんなことよりも北欧先進国のおいしそうな立ち位置を奪いに行ったほうがはるかに合理的だし、そこを競争の軸としてもらいたいものだ。
それを踏まえたうえで、科学と宗教などの関係性について述べていきたい。なんでいきなり科学と宗教なのかと思うかもしれないが、これは重要な意味がある。科学は科学で、非常に論理的なものだが、一方で宗教は宗教で魅力がある。それらは互いに補完しあってきたという歴史がある一方で、現代においては宗教は科学ほどの力を持っていない。そこに対する信頼や人々の興味が薄れているからだ。なぜそんなに薄れてしまったのかはわからないが、すくなくとも昔とは全く違う状況にあることは確かだろう。
ここで、科学と宗教についての面白い比較をしていきたい。まず科学だが、科学、というよりここでは情報に関して科学という。科学はもともと無知の知など、知ることをテーマに語られることが多い。一方で宗教は教典や聖書など、それらは知ることではなく、信じることだ。それがテーマとして語られることが多い。
科学は知識、宗教は信条という点で、まったく違うアプローチを必要としていることがわかるだろう。
これは、一体どういうことなのか。ここで、インターフェースという概念を用いてこれらを考えていく。考え方は簡単で、科学は、宇宙やメタバースがインターフェースとして機能する。一方で、宗教は神の存在がインターフェースとして機能すると考えているのだ。神の存在は、信じることによって担保されており、一方で、メタバースや宇宙は信じることではなく、知ることで担保される。これは面白いことだと考えている。そして、宗教に代表される教典や聖書などは、いわゆる知るための道具である。そして、スマートフォンは、使うためのものだ。何が言いたいのか意味わからないかもしれないが、教典や聖書を使って何をするかといえば、神の存在を肯定的にとらえるためであり、信じることだろう。一方で、アップルのスマホは、何に使うかといえば、宇宙やメタバースを知ることだろう。ツイッターやYouTube、そしてReddittなどのあらゆるメタバースに接続して、それらが何なのかを肯定的にとらえるためのツールである。
これらの差は少ないかもしれないが、ものすごく似通っており、しかも面白い。これはのちの紹介したり語っていきたい、脱インターネットの実践と近い価値観がある。