努力、それは才能に勝る唯一の方法、そのように考える人は非常に多いように思われる。しかし、ここで少し思考をしてみたい。努力とは一体何なのか、それはただ単なる正論なのか、正体に迫るということである。
努力というと世間一般には非常に聞こえがよく、成功に必要な原材料のように言われている部分が否めない。確かに、成功していようがしていまいが、それは非常にあいまいな概念であり、成功に必要だ、といわれるほどどの程度努力が重要なのかがわからなくなってくる。
さて、今日の社会活動では経済を支えるため、そして人類の発展、栄光のためにいたるところで多くの努力が行われており、チャンスだったり、決定だったりに左右されつつ、あまたの成功事例が報告されている。
とはいっても、成功という言葉自体、それを行った人間に依存する部分が多く、誰が見ても成功に見えなくても「成功」と考えるのも言い張るのも簡単であり、信頼性にはどこかかけている部分があるように思えてしまう。
上手くいかなければ努力が足りないとし、すぐさまに愚直な努力的活動だったり、何らかの変化にとんだアクションを促す。その一方で、結果的に成功したら、どのように努力したのかという具体性はあまり出さないことで、努力という言葉は無責任に重くなっていく。
問題として、努力に対する考えに包括されていることは、地道な活動こそが努力っぽい行動を指しており、そのようなイメージが努力という言葉にまとっていることだろう。しかし、言葉とは大体の場合、そういったイメージを捉えているからこそ機能するもので、努力のイメージがいちいち変動していては、言葉として成り立たなくなる。
努力という言葉が持つ意味は、地味な活動ということで間違ってはいない。しかし、それには正しさが付きまというわけではないことが注意すべき点である。というのも、努力さえしてればいい、の失敗パターンとして「無駄な努力」という言葉がある。無駄な努力などないという言葉もあるが、努力と無駄が密接に利用される背景にはそれ以外に何か重要なポイントがあることを暗示していることになりそれが最終的な方向性、目的、成果である。
目的や成果は、すぐさまに成功という言葉と結びつきやすいが、努力とは積極的に結び付けられることはない。本来ならば、目的や成果ありきの努力であり、無駄、努力、成果ないしは目的は密接な領域にあると言ってもいい。
無駄かどうかは成果がどのようなものか、その成果が無駄かどうかという話にもなってくる。