何かしらに挑戦することは、何かしらのリスクがある。これには一応も何も一切の異論はあまり出てこないだろう。しかし、挑戦の結果として成功するか失敗するかはあまり気にするほどのことでもない。なぜなら、それらは基本的に過程以上過程以下だからだ。
なにかしらの出来事が起きて、それを成功と解釈するか失敗ととらえるかはすべてにおいて受けて次第と言う訳で、傍目から見れば何が起きていたのかすらわからないことだってある。例としては、自分の失敗は自分しか覚えていないという言葉があるが、まさしくあれがいい例だと思っている。
しかし、これは一縷に失敗とは何もしなかったことだということを述べたいわけではない。何もしなかったというのは確かに失敗ととらえられがちだが、自分が失敗と思わなければ失敗にはならない。つまり、何もしないでもそれでいいと思っているならば失敗ではないのだ。
では、その観点から言うとたとえとんでもない資産を持っていても失敗だと思うことはいくらでもあり、主観的に失敗とみなせることは多すぎるくらいだと思うかもしれない。それはそうで、たとえそれが世界一の資産家だろうと、失敗は大量にするだろう。世界一の資産家というのは成功のレッテルではなく、「レッテル」なのである。
最も、失敗と思わないように試行錯誤してそれを努力という以上、自分で失敗だと思えば失敗なんだと思う、くらいでいいのではないか。こんな概念が一つ浮かんでいる。しかし、それだと、例えば老後2000万円以上必要になるからそれがないと「失敗した人生を送ってきただけ」だねと言われることがあるだろう。これは老後2000万円を客観的にとらえられるからこその言い分である。
例えばそれが暗号資産のようなダイナミズムに満ち溢れた世界で起こったらどうなるか考えてほしい。そもそも2000万円の価値をどうやって図ればいいのか、わかりずらくなる。いや、コインマーケットキャプで調べればいいじゃないかと思うかもしれないが、2000万円分の資産を分散させまくっていたらそれらを一挙に図れるようなMoneytree的存在の上位互換がなければ、「価値の公平な測量」はできないだろう。
つまり、価値が分散し続ける世界、この現実世界においては価値を一意的に推し量ることは困難であるということだ。
いや、この世界は価値が分散し続ける世界ではなくまったくのその逆だ、という人が要るかもしれないが、このレベルの話になると「そう思うかどうか」の問題に「ある程度のエビデンス」があるだけで、それも本当に抽象的、例に言えば太陽はオレンジ色である、くらいのレベルの抽象度のエビデンスだけで、どっちでもいいくらいの問題になってしまう。
つまりは、そういうことだ。