クウェートのよしくんです!
いつも読んでくださりありがとうございます!
今回はイスラームにおける「死」について書きます。
難しいテーマなので、一概に言えるわけではないですが、かなりざっくりと文章にしてみました。
やっぱり「死」というものは、ちゃんと見つめなくてはいけないテーマですよね。
あくまで僕のイメージですが、日本の思想では人を死の恐怖や悲しみから癒すものはないと思っています。
日本には昔から「祟り」や「呪い」信仰があり、それが基盤になっています。
身近な例えであれば、小学校の時にあった差別用語「~菌」。
その人に触ると菌が移ると。
これは穢れた人を避けるような思想からきています。
他にも、室内に入るときに靴を脱ぐのは室内という「浄」と、外部という「不浄」を分ける考えからきています。
穢れた者を「不浄」とみなし「呪われている」とし避ける行為は村八分制度もそれに当たりますよね。
そして、避けようとしても害のある呪いは鎮めなければなりません。
そのためできたのがお寺や神社である場合が多いと思います。
死んだ者の呪いを鎮めたり(北野天満宮など)、地震や疫病などはその土地の神の祟りだとも信じられていたので、それを鎮めるために神社、寺が建てられています。
死者について言えば、死んだ者の無念は何とかして成仏されなければなりません。
そのために供養、お施餓鬼が必要であったりします。
仏教では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道輪廻の世界。
解脱しない限りは逃れられない運命です。
イスラームの世界では、まだその「死」に対して、今を生きる人にとって救いの余地があるように感じています。
イスラームは来世志向なので、現世は「ジャンナ(天国)」へ行くための道しるべです。
信仰をしたものはみな「天国」に行けます。
ハディース(預言者言行録)を参照する限り、悪い行いをしたものは一度「地獄の業火」に焼かれ、信仰度合いを見てつまみだされて最終的に「天国」に行きます。(松山洋平『イスラーム思想を読みとく』ちくま新書, 2017年, pp24-26を参考)
親族が亡くなった者に対しては「神のおひざもとへ召されたんだ。彼には天国が待っているよ」と声をかけます。
死ぬことは一概に悪いことではない、のかもしれません。
自爆テロを起こすのも、殉教扱いとなり「天国」に行けるからに他ならないわけですが、そういった僕たちから見て「悪い行ない」も、来世に対する癒しの考えからきているとも言えます。
この辺りの死に対する考えは人それぞれですが、日本における死の考え方よりは未来があるように感じます。
毎日寝ることで、死ぬ練習をしている僕たちは、死んだあとどうなるのでしょうか。
六道輪廻の世界で何かに生まれ変わるのでしょうか。
ジャンナ(天国)に導かれることが決まっているのでしょうか。
僕自身は、「死」は神のおひざもとへ行くことだと考えて、現世では「定められた運命」を全うしようと思います。
でもいつか、一番身近で大切な人が亡くなったとき、僕はどう感じるのか。
その時に、僕の「死」に対する本当の思いが見えるのかもしれないです。
読んでくださりありがとうございました!
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