幸せになりたい ―― 。
そう思ったことはありませんか?
あ、どうも。新米心理カウンセラー・あぶです。
今回は、フランスの哲学者アランの『幸福論』をご紹介します。
古典といえば岩波文庫ですが、私はこの日経BP社のものを読みました。読みやすさも売りの1つですが、なにより随所に挿入されているイラストやカバーにやられました。いわゆるジャケ買いです。
さて、アランの特徴は「プロポ」(哲学断章)と呼ばれる、短文形式の文章です。アランは地元新聞に週1回、日々の出来事についての考察(プロポ)を掲載していたのですが、その際、即興で一気に書き、修正をしなかったといわれています。そのせいなのか、あるいは意図的なのか、プロポは飛躍したり、横道にそれたり、回り道をしたりする。文体も独特で、特有のリズムがあり、「フランス散文の傑作」と評価されています。
そんなアランのプロポの中で、私は次の作品が気に入っています。
やってもらうのではなく自分でやることが、喜びの本質である。
ところがアメはしゃぶってさえいればそこそこおいしいものだから、多くの人が幸福も同じように味わえると期待し、まんまと裏切られる。
聴いているだけで自分では歌わないなら、音楽の楽しみはほとんど味わえない。だから機知に富む人は、音楽は耳で楽しむものではなく喉で味わうものだと言っている。美しい絵を見る楽しみも、所詮はひとときの楽しみであって、それほど長続きはしない。自分で絵筆を振るったり、苦労して蒐集したりするから楽しいのである。判断するだけでなく、探求し征服することを私たちは楽しむ。
幸福はいつも逃げて行くといわれる。与えられた幸福なら、確かにそうに違いない。そもそも人から与えられる幸福など存在しない。
だが、自分から作り出した幸福は決して裏切らない。それは学ぶことである。そして、知れば知るほど多くを学べるようになる。そして人はいつも学んでいるし、知れば知るほど多くを学べるようになる。
だからラテン語を学ぶのは楽しい。この楽しみに終わりはなく、むしろ進歩するほどに楽しみは深まる。音楽の楽しみも同じである。
そこでアリストテレスは、こんな感動的なことを言った――真の音楽家とは音楽を楽しむ人のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ人のことである、と。また「楽しめることが能力の証である」とも語っている。 どんなことも、そこから楽しみを得られるようになることが、本当に進歩した証となる。
どんなこと、自分でやる。そこから楽しみを得る。
たとえ仕事を大量に抱えていても、やりたくもない飲み会の幹事をすることになっても、その瞬間を楽しもうとする姿勢でいること。それがきっと、幸せへの近道になるはずです。
ちなみに、『幸福論』で有名なものとして、バートランド・ラッセルとカール・ヒルティの書があります。この2冊については、次回以降にご紹介していく予定です。
ではまたー。