川越大師喜多院は埼玉県川越市にある天台宗の寺院です。本堂の慈恵堂は慈恵大師良源(元三大師)を祀ります。別名は潮音殿(ちょうおんでん)です。お堂の中で正座しているとザザザーと潮の満ち引きのような音が聞こえるためと言われます。大昔は、この辺りは海でした。仙芳仙人が竜神にお願いして陸地にしてもらい、その時に寺が建てられたとの伝承があります。
より確かな記録は慈覚大師円仁が天長7年(830年)に創建し、無量寿寺としました。無量寿は量りきれない寿命という意味です。無量寿仏は阿弥陀如来のことです。サンスクリット語のアミターユスは量りしれない寿命を持つ者という意味を持ち、漢訳すると無量寿仏です。藤原道長が創建した法成寺も無量寿院と号しました。
無量寿寺は元久2年(1205年)の兵火で炎上しました。元久2年(1205年)は畠山重忠の乱が起きました。川越で寺院が炎上するほどの兵火が起きたとすれば、畠山重忠の乱の余波でしょう。畠山重忠の乱の主戦場は二俣川です。重忠は鎌倉に向かう途中の二俣川で待ち受けた北条義時らに滅ぼされました。北条義時らの軍勢には川越を本拠地とした河越重時・重員(しげかず)兄弟が参戦しました。
畠山氏と河越氏は同じ秩父平氏ですが、因縁が深いです。秩父重綱の長男の重弘の子孫が畠山氏、次男の重隆の子孫が河越氏になりました。秩父氏の家督と武蔵国留守所惣検校職は次男の重隆が継ぎました。重弘の長男の畠山重能は不満を抱き、大蔵合戦で重隆を滅ぼしました。これにより、秩父氏の家督は重能のものになりました。重隆の孫の重頼は河越荘を新たな本拠地として河越氏となり、武蔵国留守所惣検校職を継ぎました。
重頼の娘の郷御前は源義経に嫁ぎました。文治元年(1185年)に義経が頼朝と対立すると頼朝によって重頼も滅ぼされました。これによって畠山重忠が武蔵国留守所惣検校職となりました。重頼の子の重時・重員兄弟にとって重忠は対立する相手でした。
畠山重忠の乱で重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と虚偽の命令にだまされて誘い出されたもので、全軍を率いた戦いではありませんでした。鎌倉に帰還した義時は「重忠の一族は出払っていて小勢であった」ことを重忠の謀叛が冤罪である根拠にして、重忠の討伐を命じた父の時政を非難しました。
まだまだ各地には重忠の残存勢力が存在したでしょう。たとえば重忠の郎党で真鳥城(埼玉県さいたま市桜区)の城主であった真鳥日向守は乱の後に主人重忠の霊供養のため剃髪し仏門に入ったとされます。同じ埼玉県さいたま市桜区にある永福寺の五輪塔は重忠の墓と伝えられています。重忠は二俣川の戦いで戦死し、古戦場には首塚があります。永福寺の五輪塔が重忠の墓ならば郎党が埋葬したのでしょう。
重忠の郎党には供養するだけでなく、戦う人々もいたでしょう。因縁ある河越氏の本拠地に攻め込む一派もおり、それによって無量寿寺が炎上した可能性があります。
NHK大河ドラマ『どうする家康』との関係では家康に帰依された天海が慶長4年(1599年)に無量寿寺北院の住職になりました。天海は慶長17年(1612年)に寺号を喜多院に改めました。寛永15年(1638年)の川越大火で焼失した後の再建では江戸城紅葉山の御殿を解体して移築しました。このため、御殿にあった春日局化粧の間が喜多院に伝わります。
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