日本の歴史と伝統が息づく川越市には、数多くの神社仏閣がありますが、その中でも特に人気がある神社が川越氷川神社です。縁結びの神様として知られ、多くの人々が訪れています。私もその魅力に引かれ、足を運んでみることにしました。
川越氷川神社の面白いところは、何と言っても「あい鯛みくじ」でしょう。釣り竿で可愛らしい鯛を釣ります。釣り竿には磁石が付いており、鯛の金具に反応して吊り上げます。タイの腹に釣り竿をぶつけても磁石が反応しないために釣れません。反応を感じて、わくわくしながら鯛を釣り上げます。鯛の中からおみくじが現れました。
鯛の釣り場は二つあります。一方の鯛は桃色の鯛です。桃色の鯛から出てきたおみくじは、恋愛運に関するものでした。そこには思わぬ言葉が書かれていました。別の釣り場は赤い鯛が中心ですが、青や黄色、黒の鯛もいます。
桃色以外の色の鯛から出てきたおみくじは、それぞれ異なる幸運をもたらしてくれるものでした。神社の境内で鯛を釣り、おみくじを引くという体験は非常に新鮮で楽しいものでした。驚きと興奮が込み上げ、神社の周りを幸せな気持ちで歩き回りました。
川越氷川神社は欽明天皇二年(541年)に創建されたとの伝承です。入間川で夜な夜な光るものがありました。人々は、これを氷川神の霊光と捉え、氷川神社を勧請しました。これは地域の信仰心と神秘的な自然現象が結びついた美しい物語です。氷川神社が古くから人々にとって特別な存在であったことを示しています。
氷川神社は武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市大宮区)の氷川神社が総本社です。こちらは孝昭天皇三年という神話の時代に創建された伝承です。氷川の名前には二つの説があります。
第一に出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷し、出雲の大河である斐伊川に由来したとします。
第二に見沼の湧水地が霊験あらたかな泉として信仰され、それを氷川と称したとします。
川越氷川神社が創建されたとする欽明天皇二年(541年)は、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)が欽明天皇の妃となり、蘇我氏の発言権が強まっていきます。欽明朝は大連(おおむらじ)の大伴金村と物部尾輿、大臣(おおおみ)の蘇我稲目の三頭体制で始まりました。しかし、欽明天皇元年(540年)に任那四県割譲問題で金村が失墜し、物部氏と蘇我氏の二頭体制になりました。次の蘇我馬子の代に物部氏を滅ぼし、蘇我氏は絶頂期になります。
室町時代の長禄元年(一四五七年)に太田道真・太田道灌父子が川越城を築城した際、川越氷川神社を崇敬し、歴代の川越城主に継承されました。太田道灌は扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣であり、主君の命令で主君の居城になる川越城を築城しました。ところが、川越氷川神社でも三芳野神社でも由緒に登場する人物は持朝ではなく、道灌です。
道灌は名声を恐れた主君によって、名誉を傷つけられ、冤罪で暗殺されてしまいました。道灌は川越城の築城に尽力しましたが、その努力は主君の恐れと陰謀によって報われることはありませんでした。冤罪被害者である道灌の名前が残ることは公正です。
太田道灌の物語は、歴史の中で悲劇的な一章として語り継がれています。彼の名前が川越氷川神社や三芳野神社の由緒に残ることは、彼の生涯と功績を正しく評価するうえで重要な意味を持ちます。道灌の名前が歴史に刻まれることで、彼の苦難や犠牲が忘れられることなく、後世に尊重されます。
菅原道真を祀る「通りゃんせ」発祥地の三芳野神社
鎌倉殿ゆかりの大宮氷川神社で初詣
川越熊野神社は八咫烏がシンボル
光る君へと鎌倉殿の間の川越八幡宮
冤罪繋がりの畠山重忠と道場天満宮