鎌倉大仏は神奈川県鎌倉市長谷の高徳院の本尊・国宝銅造阿弥陀如来坐像です。江ノ島電鉄の長谷駅から歩きます。観光客が歩いているのでついていけばいいですが、途中で長谷観音(長谷寺)と分岐しており、何も考えずについていくと長谷観音に行ってしまうかもしれません。
鎌倉大仏は東大寺大仏と異なり、大仏殿に格納されていません。露座の大仏です。青空に大仏が映えます。大仏の中に入ることもできます。大仏の草鞋も飾られています。大仏の草鞋も巨大です。
鎌倉大仏は建長四年(1252年)頃から建立されました。建長四年四月一日に宗尊親王が鎌倉幕府の第六代将軍に就任しました。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では源実朝が親王を征夷大将軍として迎えようとしました。
『鎌倉殿の13人』第43回「資格と死角」源仲章の腹の立つ笑顔
実朝暗殺後に北条政子らは親王を後継将軍に迎えることを朝廷に打診しましたが、後鳥羽上皇に拒否されました。鎌倉幕府の悲願であった親王将軍が執権北条時頼の代になって実現しました。
鎌倉大仏建立の由来は源頼朝に遡ります。頼朝は建久六年(1195年)に上洛し、東大寺大仏殿の落慶供養に参列しました。東大寺の大仏に感動し、このような大仏を鎌倉にも建立することを望みました。その意思を侍女の稲多野局(いなだのつぼね)が受け継ぎました。そして東大寺の再興に尽力した重源の影響を受けた浄光が勧進して造立しました
建立当初の鎌倉大仏には大仏殿がありました。この大仏殿は建武二年(一三三五年)の暴風雨で損壊しました。当時は鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇は建武の新政を始めました。しかし、新政は現実離れした中央集権的政策が多く、多くの武士が不満を抱きました。
北条高時の遺児の北条時行が信濃で反乱を起こすと反乱軍は膨れ上がり、鎌倉を制圧しました(中先代の乱)。時行の軍勢には大仏殿に駐屯していた部隊がいましたが、暴風雨による大仏殿倒壊で圧死者を出しました。これは時行には痛手となり、足利尊氏の迎撃に失敗して鎌倉を放棄する一因になりました。
『鎌倉殿の13人』によって鎌倉時代初期が脚光を浴びました。次は南北朝時代が熱くなりそうです。足利尊氏を描いた歴史小説の垣根涼介『極楽征夷大将軍』が第169回直木三十五賞を受賞しました。北条時行を主人公とした漫画の松井優征『逃げ上手の若君』はアニメ化します。朝日新聞では楠木正行を主人公とした今村翔吾『人よ、花よ、』が連載小説になっています。
この時代は戦前の皇国史観では忠臣と逆賊に色分けされます。しかし、上の作品はステレオタイプなキャラクターを一新します。『極楽征夷大将軍』の尊氏は「やる気なし、使命感なし、執着なし」で家臣から極楽殿(おめでたい人)と呼ばれています。『逃げ上手の若君』は尊氏を史上最も「わけのわからない」天下人と評します。どちらも計算された逆賊・大悪人イメージとは異なります。
楠木正行は皇国史観では南朝再興や父の敵討ち一辺倒の忠臣イメージが強いです。これに対して『人よ、花よ、』では高師直ら室町幕府側と交渉しようとします。『逃げ上手の若君』で楠木正成は北条時行の柔軟性を息子に持たせたくて正行という名前にしたとします。『人よ、花よ、』の正行ならば『逃げ上手の若君』の正成は満足するでしょう。
鎌倉殿ゆかりの江島神社
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