NHK大河ドラマ『どうする家康』第17回「三方ヶ原合戦」が2023年5月7日に放送されました。三方ヶ原の戦いが描かれます。徳川家康は浜松城に籠城せず、野戦を挑みました。これは武田信玄の挑発に乗っかってしまったと解釈されることが多いです。
これに対して『どうする家康』では武田軍が浜松城を素通りして西へ進むと瀬名ら家族のいる岡崎城が危険になると描きます。家康としては城から出て武田軍を攻撃するしかなくなります。個人的な平穏を価値基準に置く『どうする家康』の家康らしさは一貫しています。
このような描き方は戦国武将らしくないマイホーム主義と批判があるでしょう。一方で家康は小牧長久手の合戦でも池田恒興らの三河中入りに対し、三河に入られる前に攻撃しています。戦術を考えれば縦深防御や焦土戦術が有効な選択肢になりますが、それは自分の領土を荒廃させます。
松平信康や五徳は成長しました。信康の子ども時代は「虫も殺せぬ」と言われていました。信康は勇猛な武将というイメージがあります。逆に武に偏った暴君タイプであり、それ故に家臣から危険視されて築山殿事件になったとする説もあるほどです。『どうする家康』は信康像を一新するのでしょうか。それとも「虫も殺せぬ」と言われていた反動で個人の武勇を強調するようになるのでしょうか。
家康は信玄への降伏を考えていません。姉川の合戦で浅井長政に味方したいと悩んだ時とは対照的です。義があるかないか、人間的に好きか、信頼できるかが判断基準なのでしょう。それは御家存続第一の武士の価値観と異なると批判することもできます。現代人が共感できる新たな家康像と評価することもできます。
信長は最初、家康に援軍を送ろうとしませんでした。家康はトップ交渉で援軍を引き出します。信長は武田に攻められて窮地に陥る家康に三千しか援軍を送らなかったという史実があります。主人公の動きでゼロから三千を引き出したとすることは上手い物語です。
武田が浜松を侵攻している時期に家康が本拠を離れて信長に会いに行くことの現実味は乏しいですが、家康自らが外交交渉する必要があったと言えます。三河武士は外交が増えてです。築山殿事件も酒井忠次が上手く話せば防げた可能性があります(そもそも忠次や家康に防ぐ意思があったかは問題です)。後の家康は典型的な三河武士以上に本多正信や井伊直政を重用します。それは外交能力を評価したためでしょう。
浜松城を素通りする武田軍に対して籠城を続けるか追撃するか浜松城内で議論になります。本多忠勝は慎重派です。強い武将だからこそ武田の強さを理解しています。織田の援軍は籠城を主張します。ここは典型的な歴史解釈通りです。
本多忠勝は一言坂の戦いで武田軍と戦っていました。この時の忠勝の奮戦は「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と歌われました。『どうする家康』では血まみれになりながらも、かすり傷一つ負わなかったと強がっています。伝承を踏まえながらも、新たな描き方をするドラマです。
遠江の民衆は武田の侵攻に逃げる準備をします。『どうする家康』は第11回「信玄との密約」でも武田軍に蹂躙される駿府を描きました。近年の大河ドラマは合戦シーンを避ける傾向があり、それは本格時代劇を楽しみたい向きには批判の対象になりますが、戦争に蹂躙される民衆を描くことは戦争の悲惨さを直視します。
井伊虎松(後の直政)は戦見物に出かけ、そこで徳川勢の惨敗を目の当たりにします。後に井伊直政は武田の赤備えを引き継ぎます。三方ヶ原の戦いを見た経験が影響するのでしょうか。
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