記事を読んでくださり、ありがとうございます。
黒人差別、伊藤詩織さんの件など一括りにしてはいけないかもしれないのですが、自分の体験を踏まえて感じたことを書きます。
言い方含め、主張が強すぎるかもしれません。
誰かが傷ついてしまうかもしれません。
それでも、表現することが表現者として大切だと思ったので
書いていきます。
分断と対立した言葉が中和であるならば、
極端な話、黒人差別、女性軽視、肌の色や性別によって差別されている時、世界は中和していると言えます。
分断を起こすのはいつだって私含め、マイノリティです。
日々の生活の中で、マイノリティは自分たちとマジョリティとの価値観や直面している境遇への違いを自覚します。
自覚をしたマイノリティは、自分たちの居場所を作るか、または、マジョリティ=当たり前だと思い込むことで自分を変えてきました。
分断は、前者のマイノリティが居場所を作る際、マジョリティと対立することで生じます。
私はこれまで、女性が男性の一歩後ろを歩くのは当たり前、女性が無償で男性よりも家事をするのは当たり前といった、様々な当たり前を、生きていくために信じてきました。
しかし、今のパートナーとの出会いや現代アートとの出会いにより当たり前が当たり前ではない世界線があるということを知り、これまで当たり前を疑わずに生きてきた自分に怒りや悲しみを感じています。
そしてそれが作品につながっています。
マイノリティが行動を起こすことで価値観の多様化が進み続けています。
様々な価値観が共存することは可能です。また、互いを理解しようとする姿勢は重要です。ただ、これまで経験してきたことも、遺伝子も100%同じという人はいないので、完全に相手を理解することは不可能に近いと言えます。
しかし、価値観が多様である状態とは、互いを理解し合っている状態ではありません。
この、 互いを理解し合えないこと は、時に他者への暴力となります。
例えば、私の周りには、マイノリティだった価値観がマジョリティの価値観に移行する時、「価値観のアップデート」という名目で他人に価値観を強要する風潮があります。
先日、youtuberのせやろがいおじさんが性差別的価値観を捨ててアップデートしていこう!という旨の動画を掲載していました。
私は価値観に古い、新しいというラベルを貼ってしまうことが、これまでマジョリティに彼らの当たり前を強制されてきた感覚と似ていて、違和感を感じました。
様々な価値観を共存させるという意味での多様化を目指すのではなく、進化の過程として、メディアや人が人工的に古い価値観を淘汰することは本当に私たちが求めていることなのでしょうか。
私は、今必要なのは以下の3点だと捉えています。
①自分のスタンス(イデオロギーなど)を自覚すること。
②対立・分断する価値観を持つ相手の価値観を理解すること。
③共感し得ない者たちと自分の意思で分離すること。
※除外ではなく、あくまで分離です。
と、自分で言っておきながら、綺麗事で実現が難しいことにも感じますし、
本当にそうなの?と自分自身疑問に思ったりもします。
そのため、私自身の経験と深い関連のある性差別の観点で、自覚・理解・分離について参加者と一緒に考えていく個展の草案を考えてみました。
※あえてマイノリティとマジョリティという分けるような表現を使いましたが、これはマイノリティ=女性とか、特定の誰かを指しているわけではありません。
みんなマイノリティでマジョリティの一面を持っていると思っています。
だからこそ、マイノリティをマジョリティにしようとか、マジョリティがマイノリティを抑圧しようとする現象を減らして行けたらいいなと思っていました。(2020年6月時点の考えです。)
タイトル:「さよなら、世界」
超短い動画ですが、動く写真作品だと思ってください。
ループ再生して壁に飾るイメージで作りました。
さよなら、世界は2つセットで一つの作品です。マッチングアプリの逆、マッチしないアプリのイメージで、自分がマッチしない人を分離して、出会わないようにするコンセプトです。
除外ではなく、分離という言葉がしっくりきています。
(妄想上の個展では)自覚・理解・分離を体験できるエリアを設けたいなと考えています。その一部を公開します。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!