この半年のあいだに、香港の友人とのネット上でのやりとりがすべて英語に変わりました。
しかも一人ではなく、香港にいる友人のほぼ全員が、です。
いわゆる「中国語」で長年やりとりをしてきたのですが、お互い何も言わず、いつしか自然と言葉を切り替えていました。
この半年の香港…といえば、想像はつきますよね。
とはいえ、多くの友人とはこれまでほとんど政治的な話をすることはありませんでした。
古い言い方をすれば、僕の友人はみんな「ノンポリ」です。
この半年のあいだにも、今までのことを思えば、デモに関するやりとりをすることもたくさんありました。
ですが、今までどおり、ありふれた日常のことについても話をしていましたし、今もそれは変わりません。
なので、僕とのやりとりが中国語から英語に変わったのも、もしかしたらただの偶然かもしれません。
そもそも、友人に限らず、誰かの行為や考え方のなかに、安易に「大きな物語」を読み込んで理解した気になるのは好きではありません。
この半年、香港の友人たちとは、まだ顔を合わせて直接話せていません。
香港に行かないと、という募る気持ちを抑えつつ、広東語の勉強もしないといけないなと思いながら日々過ごしています。
昔から「你中文說得很好呀!(あなたの中国語、うまいね!)」とか「中文說得很標準~(中国語の発音が標準的ね)」と言われると、うまく返答できません。
今はまあ、少し間をおいて、ほんのり笑顔を浮かべながら、「哈哈,謝謝」と返すことができるようになりましたが、相変わらず気持ちが落ち着きません。
いわゆる母語ではない言葉を母語話者の方に褒められているのですから、素直に喜べば良いのかもしれません。
むしろほとんどの場合は、シンプルに外国語が上手いことを褒めてくださっているのだろうと思います。
ただ…
言葉以外に、相手に印象を与えるものがなかったのかな、と思ってしまうのです。
あるいは、まあ言葉はOKだけど、他は…というニュアンスを感じてしまうこともあります。
僕が素直じゃないからなのかもしれません。
ただ、言葉を褒められるということは、そうした行為とは裏腹に、僕が相手に「言葉が自然ではない・ネイティブではない」ということを感じさせてしまったからなのかもしれないな、と。
だからこそ、相手の印象の中で殊更に「言葉」がクローズアップされてしまったのかも…と考えてしまいます。
そんな思いもあって、僕も「日本語、上手ですね」と安易に口にしないようにしています。
そう言いたい気持ちになったときには、グッと飲み込んで、他に声をかけられることがないかを考えます。
そのことでもう一歩、あらためて相手のことを考えようとしているのかもしれません。
…まあ、そんなことを僕が言われないように、言葉も何もかもをトップレベルに持っていくことが大切なのかなと思いますが。
そういえば、日本語が母語だといっても、いまだにいわゆる「標準語」が話せません。
大阪弁話者ですが、コテコテベタベタの大阪弁でもありません。
仕事をするようになってから、それなりに「標準語」を意識して使うようになりました。
特に、フォーマルな場面で、人前で話をするときには「標準語」を意識するようにしています。
そういった場面で大阪弁を使うことに難色を示す人も少なくないからです(し、実際に面と向かってそう言われたこともありました。「聞きづらい」と。)
また、外国の方に日本語を教える機会もありましたので、発音矯正もしました。
ですが、それでも僕の話す「標準語」は「標準語」ではないようです。
いわゆる「標準語話者」の方からすれば、微妙なニュアンスが違うので、それが余計に「耳につく」のだそうです。
その微妙な違いがゆえに、話の内容が相手に伝わらないのであれば、そうした障壁を取り除くべく、自然な「標準語」を話すことができるようにならなければならないのかもしれません。
ですよね…
ですね…
です…
…
プチ。
…
などという下品な言葉は心の中にしまっておいて、自分の言葉を磨く日々です。
「標準語」、難しいですね。
言葉は複雑で面倒でもありますが、言葉には力があります。
そんな言葉に振り回されず、自然にあらゆる言葉が使えるようになればいいですね。
ですよね、億ラビットくんさん。