
はじめまして。
キム・カーダシアンです。
今回は都心に住む30代独身男性の無骨な生態を追う。
彼は決して大自然と戦わない。
幼少期の内多くの期間を限界集落で過ごし、今では東京に染まりきった彼にとって、自然はあまりにも洗練された美しさを備えており、無骨とはかけ離れた存在なのだ。
言うまでもないが、彼とは男である。
男というものは常に戦う相手を求め続けている。
それは時に64のコントローラーを手にたづさえて向かう友人宅での大乱闘であり、
時に寮での麻雀であり、時にはポケットモンスターのカードゲームであったりもする。
※これは順不同ではない。男の在るべき時系列である。
しかし彼は自然とは戦わない。
つまり、彼にとって自然は戦うべき相手ではない。
そこに在るだけの存在。
元来自然とはそういった意味ではなかろうか。
自然との戦い。自然との共存。自然を守る。
そこに在るだけのものと如何に戦い、如何に共存し、如何に守ることができようか。
ここには形而上学的な示唆が含まれるが、無骨な彼自身はそれを解すことすらしない。
そんな彼を通じ、「洗練」を許さない「無骨」な精神性を持てば「自然」というものの意味そのものに立ち返らされることとなる。
彼は東京サバイバー。
彼にとって限界集落はぬるま湯であった。
家賃は都心に比すればタダみたいなものであり、
気が向けば適当な竹竿だけを持ち、河原に行けば釣った魚をどこでも焚き火で調理できる。
むしろわざわざそんなことをせずとも、持って帰って便利な台所で調理したっていい。
だから彼は焚き火などしたことがない。
ツマミの山菜ならそこかしこに生えている。
獲れすぎたものは日常的に向かいのババアに渡して消化しておけば、日常的に野菜になって返ってくる。
完璧に洗練された循環がそこに在る。
身につけるものなどは機能のみを追求すればよい。
都心にいると想像もつかないかもしれないが、限界集落では車という文明の利器が標準装備となっており、都心のように敷かれた線路やリズムに沿う必要はなく、気の向くままに気の向く方へ向かえばよい。
全てが過不足なく満ち足りた世界。
生来「無骨」を求める彼には、そんな「洗練」された環境の生ぬるさが息苦しくて仕方がなかった。
そして故郷を捨て、東京で暮らしはじめてはや二十年近い。
そこにはこの世のすべてを孕む混沌が在り、それでいてなにもない、矛盾した世界。
思えば自然という言葉はそんな矛盾した世界にこそ相応しい。
在るだけのものに洗練された秩序があろうはずもないのだから。
東京では一挙手一投足に対価が生じ、常に予測不可能な命のやり取りを余儀なくされる。
彼は衣食住に難儀することのない洗練された安寧を自ら手放し、苛烈な道を選んだ。
彼は無骨な東京サバイバー。
今日はそんな彼のある一日に密着した。
その日の朝。時刻は9:45。
起床とともに、彼は無骨に伸ばした髪を結うや否や、ひとつのリュックサックを背負って外に出た。
そして2分後、彼はすぐさまに帰宅した。
用事が済んだのではない。
スマホを忘れたのである。
彼がそのことに気づいたのは外に出た直後であったが、ここで注目して欲しいのは、家を出てから帰宅までに2分という膨大な時間を要していることである。
洗練された限界集落の日々の出来事であれば数秒で足る。
しかしながらここは過酷なフィールド、東京。
彼はこの往復4分間の大半を、エレベーターという閉鎖空間に拘束されていたのだ。
一事が万事、東京は常に試練を与えてくる。
サバイバル登山家であり著述家の服部文祥の言葉を借りるならこうだ。
それは「自力を発揮させてくれる道具か、奪う道具か」
気を取り直して外に出ると、そこには草木の香りや沢の音、鳥の声もない。
代わりにあるのは硬く黒々とした地面と、そこを行き交う無数の車、そしてそれらの発するけたたましい轟音である。
東京にはこれほどの車が往来しているにも関わらず、不思議なことにその車を所有しているのは極々わずかな限られた特権階級のみであり、無論、無骨な彼はそんな特権を持たない。
限界集落ではあまねく人々が当たり前のようにそれを転がしていたが、ここは東京。
必要に迫られれば自由な身体活動を封じられ、利器に頼ろうとすればそれは遥か手の届かない代物。
過酷な環境である。
その後、彼が辿った道程は壮絶を極めた。
己の足のみを頼りに2分に及ぶ過酷な行程の末、「まいばすけっと」という場所に立ち寄った。
そこにはこだわりもなければ選択肢もない。
ごく限られた食材や日用品が並んでいる、「洗練」とは対を成す「無骨」な商店である。
しかし、同じく無骨な彼の生き様にはよく馴染んでいた。
彼は注意深く目を光らせ、必要なものを烈火のごとく籠に入れていく。
そして次の瞬間──
店内を劈くような電子決済音がけたたましく鳴り響いた。
直後、彼は無人レジから凄まじい勢いで飛び出してきたレシートを掴み取るや否や、隣のアクリル製の箱に放った。
そして獲物のたらふく詰まったビニール袋を手に、振り返ることもなく店を後にした。
無論これで用事が済んだわけではない。
彼の一日はまだ始まったばかりである。
この先、これまでの旅の約5倍の行程が待っている。
道中は険しく、無骨だ。
東京の過酷な環境が容赦なく彼の行く手を阻む。
道路の向こう側には、彼が幼少期に生ぬるく暮らした二階建て住居ほどの高さはあろうかという鉄柱が生えている。
そこで暮らしていたかつては見たこともなかったような建端のその鉄柱。
その中腹には、二つのライトが縦に並び、そのうち上のライトが赫く灯っている。
それを目の当たりにした彼は、直感的に生命の危機を感じ、一歩も動くことができなかった。
東京サバイバルを通じて得た知識の全てが血肉となっている彼にとって、その知恵は本能に限りなく近い形で行動に直結された。
「おもしれぇ。我慢比べといこうや。」
その時の彼の表情はそう語っていた。
ニヤリと笑ったようにも見えたが、それとは裏腹に彼は冷静に構えている。
果たしてそれは数秒の出来事であったか、1000日に及んだのか、今となっては誰にもわからない。
互いに一歩も譲らぬ睨み合いが続いた。
そしてその時は来た。
赫いライトが消え、その下の蒼いライトが灯った刹那、彼は行動開始した。
彼はみるみる鉄柱に歩み寄り、そのまま一瞥もくれずに横切った。
筆者が記録用の写真を撮り終える頃には既に遥か向こうまで歩みを進めている。
筆者は決死の思いでなんとか追いついたが、命のやり取りを制した直後とは思えないほど、彼の目には疲れも曇りもない。
その後も彼は当然のように命を燃やし続け、ついに約10分の行程を踏破して目的地にたどり着いた。
「●●●●公園デイキャンプ場」※軽率な模倣者の出現を考慮し、伏字とさせていただく。
看板に記された文言からも東京の残酷さ、過酷さが窺われる。
午前10時から午後6時まで——
この公園は、当然のように彼の行動に制限を加えてくる。
無料——
あたかも当然のように、本来は対価や許可が必要であるかのような態度だ。
当然ながら限界集落の河原であれば誰の許可も必要であろうはずがない。
許可とは支配者の手口である。
畢竟、東京という化け物は油断するといつでもそこに在る者を支配しようとするのだ。
しかし彼は臆することなく突き進み、ビルとビルの合間のさながらウナギの寝床のような細道に、目ぼしい場所を見つけた。
気づけばここはアマゾンの奥地、いや、そうではない。
コンクリートジャングルと称されるこの東京において、安地を見つけ出すには相応のセンスを要するとされている。
特殊な訓練を受けている彼だからこそ可能な芸当であることは言うまでもないが、筆者の責任として注釈を挟む。
もしこれを読んでいるあなたが真似をする際は、十分に装備を整え、できれば専門家に同行してもらって欲しい。
彼は背負っていたリュックの上部ポケットから手際よくグランドシートを取り出し、そこに全ての荷物を広げた。
詳しくは彼の行動を観察しながら見ていくとして、
本稿表題の通りこれからこの場でサバイバルを行おうとしているとすればどうにも頼りない。
テントはどこだ?寝袋は?焚き火台やクーラーボックスもない。
小さな机兼箱とその中に簡単な調理器具と食器等の雑貨、そして小さな折りたたみ椅子。
ここでもう一度服部文祥の言葉を借りたい。
「山に対してフェアでありたい」
著書の中で、人工的な装備や過剰な安全マージンに頼らず、いつ死ぬかわからない野生の条件の中に生身の身体ひとつで対等に身を置くという、サバイバル登山の美学を語った言葉だ。
彼の広げた荷物は、正しくそれを体現していたと言っていいだろう。
これらは全て背負っていたカバン一つに収められており、保冷袋の中身はなんと道中調達したもののみである。
後に彼はこう語ってくれた。
「効率や便利さを手放し、食材を現地調達するような不便で手間のかかる営みの中にこそ、本来の生の手応えがある」
彼の背負っていたリュックにも注目したい。
冒険家や登山家など、大自然で過ごす者の多くは、それ専用に多くの機能を有し、それでいて軽量で、体全体で重量を支えるような洗練された作りになっている。
しかし東京サバイバーである彼のリュックはどうだ。
おおよそこのようなものであった。
リュックですらない。彼の妹が中学生の時に修学旅行用に買った旅行カバンを無理やり背負っていたのである。
当然特別な機能や収納はないため、ポール等の長物は無理やりバンドでくくりつけていただけであった。
実に無骨で彼らしい。
そして徒歩サバイバルにおいて最も難しいのが重量問題である。
そのため並の者であれば専用の装備を整えることから始める。
しかし彼は実にシンプル且つ無骨な方法でこれを解決している。
それは片道所用踏破時間10分少々という緻密な計画だ。
必要な荷物を最小限に抑えることはもちろん、その荷物が重くて大変なところには行かなければ良いのである。
命の重さを十分に理解している彼ならではの判断力。
東京サバイバーは基本的に車すら所有していないことは先に述べた。
レンタルして、より快適な装備を積めるだけ積み込んだっていい。
しかし彼はそんな安易な解決を求めない。
不思議なことに常に減り続ける口座残高と戦い続け、ひりつくような命のやり取りが常態化している彼にとっては、不自由から生じるこの刺激こそが生き甲斐なのだ。
もう一度言う。
彼は大変なところには行かない。
シンプルで、無骨で、それでいてエレガントな解決策と言える。
雄鹿や猪、熊が好んで自らを疲れさせたりするだろうか。否である。
サバイバルとは、常に命のやり取り、真剣勝負なのだ。
鹿や猪と同様、彼もまた東京というサバイバル環境で生きている。
命のやり取りをする上では、無骨さとクレバーな思考を両立させる必要がある。
彼にはそれがたまらないのだと言う。
だから彼は大変なところには行かない。
彼は道具箱の中から取り出したシートを広げた。
端の何箇所かにペグを打つ。
このシートはあらかじめそのためのループが縫われている、所謂タープと呼ばれるものだ。
彼にとっては、ペグ打ち用のハンマーなど無用である。
限界集落の河原は、辺り一面に石と呼ばれるたいへん便利な道具がいくらでも転がっているイージーな環境であったが、ここは無骨なコンクリートジャングル、東京。
全てが満ち足り、洗練された生ぬるい環境とは違う。
そこで彼は、ペグをグッと踏んだ。
河原であれば砂利や石をかき分け、そのペグを深く突き刺すにはそれなりの力でもって入念に叩く必要がある。
森であれば同じく石や、木の根に阻まれることもある。
しかし、東京サバイバーは、東京という環境を完全に知り尽くしている。
芝生のところは、グッと踏めば大丈夫なのである。
サバイバルマニアの間でブッシュクラフト呼ばれる楽しみ方がある。
ナイフ等必要最小限の装備のみを持参し、道具や居住環境はできるだけ現地に転がっている材料でクラフトするという実に無骨な楽しみ方だ。
彼はその無骨さをゆうに越える無骨さを披露してくれた。
無駄な道具を持ってきたりしない上に、クラフトすらしないのである。
グッと踏めば大丈夫なのである。
無骨である。
彼はペグを打ったタープの中に潜り込んで行き、ポールを立てた。
これにて居住地の完成である。
徒歩に耐えうるような高価なテントなど無用の長物だ。
このフィールドには適さない。
適さないものは持たない。
東京という環境を熟知している彼は、キャンプなのにテントを持ってこないという離れ業をやってのけながら、パーソナルスペースを必要十分に整えてみせた。
中は大人一人が寝転んで一人分の荷物を置いておくとちょうどいっぱいくらいの広さで、高さは彼が持参した折りたたみ椅子に座ると若干の余裕がある程度。
無作為に縄張りを広げることは、その分守るべきものを増やすことを意味する。
だから彼はそれをしない。
それでいて生命を維持するに足る空間。
いかにも無骨な彼らしい。
タープを用いたステルス張りと呼ばれるオーソドックスな手法で建てられている。
縄張りを最小限にすることで一枚のタープから密閉空間を生み出せるだけでなく、風にも強いそうだ。
無骨なサバイバルにおいて、実用的故に王道なタープ活用法である。
彼の建てたステルス張りは筆者の知るステルス張りよりもやや空間が広い印象であったため、何かコツがあるのかと尋ねると、彼はタープの極意を教えてくれた。
タープは3✕3メートルが基本的なサイズであり、これには深い理由がある。
サバイバルというのは決して快晴の中でのみ行われるものではない。
雨風の中、泥濘んだ山中での野営などザラである。
そうなると今回のようにタープを一旦地面に広げたり、もたついたりしていれば荷物もタープ自体もずぶ濡れになってしまう。
迅速な行動が求められる環境で泥汚れは撤収後の重量にも繋がる。
少なくとも一般的に少なくとも1/10キロ単位で荷物の重量を計算して臨むサバイバルにおいて、無駄に大きなタープであればそれそのものの重量も馬鹿にならない。
1辺が3メートルまでであれば、成人が両手を広げれば端から端まで手が届き、タープを掴んで宙に浮かせたまま手際よく設営・撤収ができるというわけだ。
彼の説明は身振り手振りも交え、実に簡潔でそれについてはよくよく理解できた。
3✕3メートルというのは必要十分であり、且つ取り回しを考慮した上では最大。つまり最適である。
ところでなぜ彼の建てたステルス張りは一般的なものよりも広く感じるのかという疑問は残ったままなので、あらためて問い直した。
彼のタープはこれだそうだ。
3.5✕3.5メートルである。
先ほど教えてくれたのはあくまで基本ということだろう。
彼がその基本を踏まえず、敢えてこのサイズを選んだ理由を重ねて聞いた。
3✕3メートルだと、ちょっと狭いから嫌なのだという。
目から鱗であった。
彼はその後も落ち着く様子はなく、そそくさと住居の入り口を開口し、道具箱を並べ出した。
まるで命の駆け引きを始めたかのような形相で一通りのセッティングを終えると、彼は満足げにあるものを取り出した。
なるほど、まさに命の駆け引きであった。
彼が取り出したのは
発泡酒の6缶パックである。
サバイバルにおいて水分の枯渇は死に直結する。
迅速な作業であった。
時刻は10:25。
驚くべきことに、彼の起床からここまで一時間も経過していない。
彼は1缶目のビールを飲み干してからようやく落ち着き、「ちょうしたのかばやき」を火にかけ、2缶目のビールを開けた。
缶詰が温まるまでは干納豆で凌ぐ算段のようだ。
ようやく一時の安寧を得た。
思えばここまで、常人ならば命がいくつあっても足りなかっただろう。
落ち着いた彼はおもむろに調理を始めた。
現地で調達した食材は、玉ねぎ・豚こま肉・コカコーラの缶・食パン。
実にシンプルである。
調達のコツは、野菜をあまり手に取らないことだそうだ。
東京のサバイバルは人目に触れるため、軟弱者だと思われたら終わりなのだそうだ。
また、「まいばすけっと」において野菜は高価で、肉は安い。
必然的に生命を維持するに足る食材は、肉なのである。
それを聞き、筆者は彼の無骨な信念の一端を垣間見た気がした。
豚は塊のものが欲しかったそうだが、残念ながら「まいばすけっと」では獲得できなかったとのこと。
しかし、筆者から見た彼のその表情は決して残念そうには見えなかった。
「こういう不自由が、生きるってことなんですよね」
調理をしながらつぶやいたこれこそが彼の真意なのだろう。
思い通りにいかないことこそがサバイバルの醍醐味なのだ。
いくばかのスパイスをふりかけ、刻んだ玉ねぎと豚肉を少し炒めると、半分はマグカップ大のクッカーに取り分けた。
その中にコカコーラを注ぎ入れ、スパイスを追加して火にかけると、彼はフライパンに残った豚肉を3缶目のつまみにした。
ここからしばらく彼は酒を飲みながら読書に耽っていたため、筆者はタープで一眠りさせていただいていたが、突如彼の驚きの声が響いた。
サバイバル環境においては、たとえ彼のような熟練者であっても想定外の事故がつきものである。
筆者は飛び起きて彼の手元を確認すると、そこには「ホテイ やきとり」の缶詰が握られていた。
塩味であった。
筆者はすぐに事態の深刻さを理解した。
自明のことではあるが、つまり「たれ味」ではないのである。
筆者は、しばらく頭を抱える彼にかける言葉を持ち合わせていなかった。
おそらく、取材のために少なからずいつもの彼のペースを乱してしまっていたことが原因と思われるが、彼は決して筆者を責めることをしなかった。
不謹慎な話では在るが、彼に同行していると実感しにくかった自然界の残酷さの一端を、この時の筆者はようやく垣間見たような気がした。
いつの間にかフライパンの中の豚肉はもうなくなっており、「ホテイ やきとり しお味」の他には干納豆のみとなっていた。
彼は缶詰をただただ見つめながら、ビールを飲み干した。
「もう限界だ。中断したほうがいい。」
筆者がそう告げようとした瞬間、彼は空き缶を捨てようと手にしたゴミ袋を覗くや否や、目を輝かせてその中を漁り始めた。
この極限状態に耐えかねた彼はついに頭がおかしくなってしまった——
わけではない。
彼が取り出したのは見覚えのある缶詰。
筆者はドキュメンタリーを描くつもりでこの取材をしていたが、これをありのまま書いて仕舞えば巧妙なミステリー小説か何かと誤解を与えてしまうのではないかと躊躇している。
しかしこれは紛れもない事実である。
彼が手にしていたのは「ちょうしたのかばやき」の空き缶であった。
いいや、空き缶と呼ぶなかれ、中には「たれ」が残っているのである。
もうお分かりだろう。
彼は直ちに「ホテイ やきとり しお味」を開けた。
そして、「ちょうしたのかばやき」の缶から全ての残りだれを注いだのである。
彼独自のサバイバル技術によって、苦難の道は切り開かれた。
知識だけでなく、本物のフィールド活動によって磨かれた応用力と言えよう。
筆者がそんな所感を書き留めているうちに、彼はいつの間にか日本酒を飲んでいた。
筆者はあまり日本酒を嗜まないため、差し出されたそれを断ってしまった。
すると彼は、筆者がつい礼を失してしまったことを反省するより先に、ステンレスだかチタンだかのボトルをこちらに寄越した。
中身はバーボンだそうだが、筆者はこれもあまり嗜まない。
ドキュメンタリー作家としては恥じ入るばかりだが、彼は直ぐにそれを察したのか、気付けば翳りゆかんとする陽の方向を指さした。
西陽の向こうにかすかに見えたのは「セブンイレブン」の看板であった。
なるほど、筆者は彼が無意識に呟いた言葉を思い出した。
「こういう不自由が、生きるってことなんですよね」
現地調達こそがサバイバルの醍醐味に違いない。
筆者がセブンイレブンで炭酸水を調達し、ハイボールを作り終えた頃、いつの間にか彼はホットサンドを焼き上げていた。
中身は今朝から煮続けていた豚肉だ。
コカコーラが砂糖とスパイスを兼ねているようで独特の風味が酒に合う。
このサンドイッチにはやはりハイボールが合う。
作ったハイボールはまたたく間になくなり、気がつけば彼もハイボールを飲んでいた。
飲みながら彼は遠くを見つめ、誰に語りかけるでもなく、こう呟いた。
「どうせなら氷も一緒に買ってこいよ」
彼の真意を捉えることは難しいため、原文ママである。
一通りを飲み干し、食べ終えると同時に彼はタープを畳み始めた。
「今日はつかれたから帰るわ」
彼は東京という過酷な環境に敬意を払っているからこそ、決して油断をしない。
日本には太古より「畏れ」という概念が存在するが、それは「Afraid」でもなければ「Respect」でもない。
双方を内包すると言ってしまえばそれらしくはあるが、違う。
彼は自然に対し、「畏れ」を抱いている。
敢えて欧米人に説明するならば「Respect」に限りなく近くはあるが、そう説明してしまえば真の意味で彼らとこの意味を共有できる日は来ないだろう。
野営には「畏れ」を伴う。
つまりどういうことかと説明するには、その後の彼の行動や問答をそのまま記述することが最も正確であろう。
今朝の設営と同様の手際で、彼はそこに在る全てをリュックの中に撤収した。
使った食器はどうしたのかと問うと、「家で洗うよ。家そこだし」と答えた。
野営はしないのかと尋ねると、「ここ6時までだし」と答えた。
支配者に屈するのかと尋ねると、「家そこだからベッドで寝ればよくない?」と逆に問われた。
単純明快。
正しさや情緒といった洗練されたものはそこにない。
まさしく無骨である。
その後、彼は自宅マンションに消えていった。
今日この日を正確に記録すべく、筆者はしばらくそこでペンを握り、手帳を開いた。
すると二分と経たずに彼は再びあらわれた。
手ぶらである。
どうしたのかと尋ねると、「まだ居たの?飲み足りないから焼き鳥屋行くけど、来る?」と逆に問われた。
彼は東京サバイバー。
彼ほどの無骨者を、私は他に知らない。











