2015.6.5~6 諏訪方面へ行ってきました。「創業安政五年(1858) えびす屋」でお土産にわかさぎの空揚を購入(美味しかった!)後、「諏訪大社下社秋宮」へ。
諏訪大社・下社秋宮
いい天気になりました。風が吹くと木々に付いた雨粒がパラパラパラパラ~と振り落ちます。キラキラ綺麗でした。
寝入りの杉 樹齢600~800年
諏訪大社上社は杉よりもケヤキの巨樹が多いようですが、こちらは杉の巨木です。秋宮の鳥居をくぐると、境内の真ん中にど~んとそびえ立っています。参道真ん中の立ち位置もなんか不思議です。
秋宮「神楽殿」
拝殿かと思ったら神楽殿でした。こちらも参道の真ん中にあります。う~ん・・・・神楽殿って参道の脇にありますよね?
参道の真ん中とは・・・・・。そもそも神楽殿とは、神様へ奉納するために神社の境内に設けた神楽を奏するための建物ですね。方向や場所とかは、あまり関係ないのかなあ?
注連縄は出雲大社のと同じ大きさ?(ちょっと幅が狭いように感じるけど)で長さ約7.5m、重さ約1トン、青銅製の狛犬は日本一の大きさだそうです。
来年が御柱祭(2016)ですが、その前年に更新される注連縄は、「出雲大社注連縄保存会」から技術指導を受けて作るようになったそうです。出雲大社のとは少し違うそうですが。
ちょうど「大安」だったようで、この神楽殿では結婚式が行われていましたよ。
幣拝殿
大安なのでお宮参りのご家族も^^
幣拝殿
幣拝殿(重要文化財) 江戸時代、安永10年(1781年)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並ぶ。
幣拝殿の脇から 御柱は「一の柱」
幣拝殿の奥の御宝殿
この御宝殿の奥に御神体の「イチイ」の木があるようです。
神様=木、ではなく、神が宿るまたは降りるものと考えると、例え枯れてしまっても新たに植樹すればよいということになるのでしょうか?
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/akisintai.htm(参考)
上社の神体山に対し、下社は御神木を御神体として拝します。
御宝殿は、新しい方を「神殿」、古い方を「権殿」と呼び、「寅年と申年毎」に左右の「遷座祭」を行います(御柱祭)。
それとは別に、秋宮で8月1日、遷座祭(お舟祭):2月1日に秋宮から春宮にお遷した御霊代を春宮に戻します(例大祭)。
う~ん・・・・・ということは、今は、秋宮は神様はお留守ということ??
寅年と申年毎に、秋宮・春宮共に、それぞれの宝殿の右、左に神様を移し(宝殿造営)、更に、2/1に春宮に神様を移し、8/1に秋宮に神様を移し・・・・・・・・神様もけっこうお忙しいですね。
でも、ずっと御神木には神様は宿っている・・・・? 神様がたくさん居られても不思議ではありませんが。ちゃんと、しっかり勉強しないと解りませんね。。。^^;;
10:00~10:30くらいでしたが、大安とあり結構賑わっていました。
新鶴本店
秋宮脇の創業明治6年・塩羊羹の和菓子店。リクエストで寄りましたよ。「甘いもの・しょっぱいもの」同時に味わえて、昔の人も旅の途中で頬張れば、疲れも飛んだことでしょう^^
その後、すぐ近くの「下諏訪町立歴史民俗資料館」に立ち寄りました。あまり旅行者は来ないのかなあ。入館してから電気を付けてもらいました。館長?さん、とても親切でいろいろ教えて頂きました。
下諏訪は、江戸時代には中山道と甲州道中の合流した所にできた宿場町を中心に発展しました。(資料館のすぐ近くに甲州街道の終点がありました。)東には中山道一番の難所といわれる和田峠西には塩尻峠と二つの峠に挟まれ交通・軍事上の要衝の地でした。しかもここには有名な諏訪大社下社があり、また古くから 宿場の中に綿の湯・小湯・旦過湯などの温泉が出ていて、その賑わいぶりは『木曾路名所図絵』や『金草鞋』に描かれていました。
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その後、春宮へ。
諏訪大社下社春宮
ぱっと見ると、秋宮とほとんど同じような造りなのですが、人も少なく静かでした。
秋宮が立川流であるのに対して春宮は大隈流の建造で、幣拝殿などの細部に施された彫刻などはまったく異質だそうです。
これは江戸時代を代表する2つの流派が同じ図面で競い合って秋宮と春宮を建てたためだそうですよ。
幣拝殿
幣拝殿の奥の御宝殿
下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。春宮は杉の木を、秋宮は一位の木を御神木として拝しております。
その後、万治の石仏を見に行きました。
浮島神社(諏訪大社下社の末社)
途中に浮島社がありました。左の白装束の方の横笛(神楽笛?篠笛?)の音色が、川の流れの音と共に良い空間を作っていました。
諏訪湖周辺は、あちこちで水音がして、流れの音がして・・・ホントに浄化され続けているような清らかな空間のように感じました。
万治の石仏
私的には3~4度目でしょうか。
万治の石仏(まんじのせきぶつ)は、長野県諏訪郡下諏訪町東山田字石仏にある、江戸時代前期の1660年(万治3年)に造られた石仏。下諏訪町指定文化財(昭和57年(1982年)3月26日指定)[1]。
高さ約2.7メートル、奥行き約4メートルの胴体の上に、高さ約60センチメートルの頭部が載る。「万治」という名は、同仏像の胴部に「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と銘が銘が刻まれていることに由来する[2]。
伝承によると、諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を立てるため、この石仏を材料にしようと鑿を入れたところ(その鑿は現存している)、そこから血が出てきたため職人達は祟りをおそれ、その晩に夢枕で上原山に良い石材があるという夢を見た職人達が探しに行くと見つけることが出来、職人達はこの石仏を阿弥陀如来として祀った。それに因んでこの辺りの小地名は「石仏」となっている。
同仏像は、芸術家の岡本太郎が訪れて絶賛したことにより有名となった。また、上諏訪町(現・諏訪市)出身の小説家・新田次郎も万治の石仏を賞賛しており、同仏像はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたものとする大胆な想定を基にして小説『万治の石仏』を著している。
1991年8月に一度頭部が落下したため支柱で固定し修復したが、その後、ある写真家が毎年撮った写真を見たところ、首が伸びていることがわかった。2007年にテレビ番組で紹介され、観光客も増えたが、下諏訪観光協会は「周辺の安全確保」ためとして再修復することとし、2008年3月4日に修復作業が行われ、頭部の下から水や泥、賽銭25円が発見された。首が伸びた原因は、以前の修復時に設けた支柱に水が溜まり、氷になって斜めになり、その繰り返しで頭部が上昇したとされる。修復前に測定したところ、正面で4cm、左右は6~7cm上昇していた。
万治の石仏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2019年2月24日 (日) 06:53
石仏のアタマ・・・なんか大きな地震があったら落ちそうだなあと思いました。なんと、一度、アタマが落ちてるんですねー^^;
岡本太郎さんの万治の石仏「石碑」も見てきました。「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と大絶賛して残した石碑だそうです。
新田次郎の鷲ヶ峰物語の中の「万治の石仏=イースター島起源」の小説も面白かったですね。また読み直そうかな。
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