割と近くだったのですがなぜか参拝の行ったことがなくて・・・行ってきましたよ。小田急線「代々木八幡」駅から直ぐ近くです。
正月にボケ~っとテレビを観ていたら、会社単位で初詣に来られている方も多いようで、ならば一度は詣でてみないとなあと。そもそも「代々木八幡」の駅はこの神社から付けられたわけで・・・知ってはいたもののアウトオブ眼中だったんですよね~。
山手通りの反対側より。
参道へ続く階段の上の第一の鳥居。けっこう横長で大きいです。
境内は石は引き詰められていてとても綺麗です。階段上ると割と平ですね。
第二の鳥居
手前に石を引き詰めた業者さんの石碑がありました。
お~、遺跡跡があ~るではありませんか!縄文の頃からココは地理的にも良さげだったんでしょうねー。少し高台なのです。私的にテンションが上がります(笑
4500年前の石器時代中期! いいですね~^^ 縄文初期~中期~後期!!
標高32~33mの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島の端に位置している・・・・。
お~、まさに「ヘリ」ですねー、ブラタモリ^^。半島のヘリといえば熱田神宮もそうだったし、他の古い神社も丘陵は半島のヘリに鎮座していることが多いですね~。
境内内には石を引き詰めた丸い場所がいくつかありました。八幡神社なので、「土俵」をモチーフにしたのでしょうか?う~ん・・・面白い神社だなあ。
ご神木・・・??
こういう寄付板の写真はあまり撮らないのですが、すごい名前が並んでいたので撮りました。「明治神宮」「東郷神社」「熊野神社」「鳩森八幡神社」「北澤八幡神社(先日アップした神社です)」宇賀神さん、宇佐見さん、角栄グループ、崇教真光・・・・・・ちょっとすごいです・・・・。
手水舎
拝殿
手水舎の奥の囲われた古い立木。どうも枯れてしまっているようなんですよね・・。
ちょっと、いろいろなワードでググってみましたが情報が出てきません^^;
本殿の裏のご神木。境内では一番太いかも?
拝殿を続く参拝者の廊下
左奥に社務所 肌色の木はサルスベリ
拝殿左脇から稲荷神社へ続く鳥居。鳥居に幾つかの小石が置かれていました。
お稲荷さんの右側に富士講の石碑が建っています。お稲荷さんをお参りしてぐるりと
廻って降りる雰囲気は、ここは富士塚だったのではないかなあと・・・。丘陵のヘリなので南東方向は開けています。昔は、ココから富士山が拝めたのかもしれませんね。
境内からお稲荷さん、富士講の碑をぐるりと回ると、この入り口から出てきます。
で境内方向へ戻ると・・・
いや~、良い神社でした。黒塗りの高級車で、何処かのお偉いさんも参拝に来ていました。そういう神社でもあります^^ テレビで観た時も一般参拝者というより会社全員で参拝の来られている方が多かったですね。この日は金曜日でしたが一般参拝者も途切れることなく詣でていました。確かに現世ご利益を受けられそうな空気・空間でもありました。ただ、それは後世の人々が作り上げた「気」のような気もします。私的には半島のヘリで暮らす縄文の人たちに思いを寄せました。
代々木八幡宮がお祀りしている神さまは応神(おうじん)天皇=八幡さまです。 応神天皇さまの時代は、大陸文化が多く渡来したことから「産業・文化の発展と守護」の神、 またお母上である神功(じんぐう)皇后さまとの神話から「安産」「子育て」「家内安全」の神として、 さらには、「怨霊退散」「渡航安全(交通安全)」の神としてもあがめられています。
鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近であった近藤三郎是茂(これもち)の家来で荒井外記(げき)智明(ともあきら)という方が、頼家公暗殺の後、名も宗祐(そうゆう)と改めてこの代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていましたが、時に建暦2年(1212年)8月15日夜、霊夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得しました。そこで同年9月23日、元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされています。
当社は草創以来、社僧の手によって管理されてきました。当社の別当寺であった福泉寺の文書によれば、 天保元年(1644)伝養律師という方が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、 三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれています。
明治維新以降、神仏混淆が禁止され当社は村社に列せられました。 江戸時代からの稲荷社、天神社の末社に加え、旧代々木村にあった小さな神社が合祀され、 天祖社(天照大神)と白山社(白山大神)が八幡さまの配座に祀られることになりました。神社hpより。
代々木八幡宮前の山手通り。この煙突は地下の首都高の排気口でしょう。
その後、代々木上原駅まで、ぶらぶらと・・・。かわいい教会もありました。
ん?神社?と思いましたが神道系の宗教法人のようですね。南向きに門があって、奥を観ると上り坂となり、その丘陵に立地しているようです。