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以前、上記の「神社」の基本知識をご紹介 (matol 神社基礎)カテゴリーで神社について深掘りしましたが、お神輿について触れていなかったので調べました。
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神輿の起源について、wikipediaには
狩猟と採集による移住を繰り返した時代に行われた収穫祭の祭壇が起源で、このときは祭りが終わると神輿は取り壊され、毎年新たな神輿を作って天上の神を招いていた。農耕が始まり人々が定住するようになると、神に対しても定住が求められるようになり、居所としての神社が誕生した。そして神の乗り物として神輿が継承され現在のような形になった。
文献上での初出は、奈良時代の元正天皇の治世、養老4年(720年)九州で起こった「隼人の乱」にあるという。同年2月九州南部の大隅・薩摩に住む隼人は、大隅国守・陽侯麻呂を殺害して反乱を起こした。朝廷は歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万を超す軍隊を派兵した。この時、朝廷は宇佐八幡宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を祈願した。当時は、今の大分県宇佐市小倉山でなく、近くの小山田に鎮座していた八幡神は、この願いに応じ、「われ征きて降し伏すべし。みずから神軍を率いて隼人討伐に赴く」と託宣を下した。朝廷は豊前国司(ぶぜんこくし)宇努首男人(うぬのおびとおひと)に命じ、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた。『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、「豊前国司に仰せつけられ、初めて神輿を作らしむ」とある[要出典]。
聖武天皇が奈良に東大寺を建て、毘盧舎那仏(奈良の大仏)を建立して国の象徴として建設にあたる時、天平勝宝元年(749年)に、これを助けるために、宇佐八幡神は、屋根に金色の鳳凰が輝く天皇の乗り物(鳳輦)に乗って奈良の都へと渡御した。この鳳輦こそが、1300年の歳月を経て今に伝わる神輿の原型である。
平安時代になると、近江の日吉大社や京都の祇園社(現・八坂神社)・今宮神社・北野天満宮や、大阪の大阪天満宮などでも神輿が作られた。鳳輦をもとにして、これに魔除けの巴紋や神紋を飾り、ミニチュアの神社のように鳥居や玉垣、高欄などが付けられた。こうして、主に奈良・京都を中心にして神輿が一般化された。
神輿 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 最終更新 2020年7月22日 (水) 12:38
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上記のように、お神輿は、収穫祭の祭壇>八幡さまの移動が起源のようです。
宇佐神宮に関しましては、以前詣でておりまして、下記に投稿しています。
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神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である[1]。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが[1]、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。
一般的に神殿をかたどった輿が多いが、神木(諏訪大社・長野県諏訪市)、人の性器(田縣神社・愛知県小牧市)をかたどったもの、人形を置いた神輿、四方に絵を描き屋根に弓張り提灯を並べた万燈神輿(まんとうみこし)[5]がある他、神酒樽を用いた樽神輿などもある。
神殿造りの一般的な神輿でも四角形の他に、六角形(例:あきる野市阿伎留神社[6] )の物や、八角形の神輿も関西を中心に存在する。東京では住吉神社の八角神輿が有名である。
神輿 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 最終更新 2020年7月22日 (水) 12:38
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上記を読みますと、
神輿一基をつくるにあたって携わる職人は、なんと二十数職。大人神輿で約1年、子供神輿で約半年の制作期間を要し、制作費用は大人神輿で1千万~2千万円以上かかるという驚きの裏話まで。また、台輪と呼ばれる土台に、東西南北を示す四神を入れるのが習わしだそうです。
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2020.9.6 近所の稲荷神社のお祭りに寄りました。
ちょうど、お神輿も見れました。
確かにお神輿、手が込んでいますねー。
なんとか境内では例大祭が行われましたが、お神輿も山車(だし)も中止。今年は神さまは境内で待機ですね。境内での飲食は食べ難いでしょうが、フェイスシールド着用義務でした。
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