2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。
9.10 宇奈岐日女神社の参拝後、もう一度、大分自動車道~日出バイパスへ向かい、国東半島の「熊野磨崖仏」を目指しました。
駐車場にクルマを停めて拝観料300円を払うと、杖を持っていくように勧められました。んん?そんなに登るのかあ??
山深くなかなかの雰囲気です。
燈籠に石が積み上げられ・・・
鳥居にも沢山の石が載っていましたよ。
うひゃ~~~、かなりの急坂です。
足場もいわゆる階段ではなく石が斜面に沿ってゴロゴロ置かれているだけ^^;
未だテスリのない頃には転落事故がしょっちゅう起きたそうですわ。。。。お太りになられた方も参られていましたが、かなり辛そうでした。
しばらく階段をヒーヒー云いながら登ると、仏様が左手に見えてきましたよ。
熊野磨崖仏
平安時代末期の作と言われている「大日如来(約6.7m)」と「不動明王(約8m)」の磨崖仏。国指定の重要文化財。
国内最古にして最大級の磨崖仏です。また、鳥居から熊野磨崖仏まで続く100段もの石段は、昔、鬼が築いたと伝えられています。
約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入ります。
不動明王像
左側の掘り像。柔和なお顔をされていますねー。比較的軟らかく加工しやすい岩壁に刻まれており風化が進行しているためのようですよ。
大日如来像
右側の掘り像。こちらも優しいお顔をされていますねー。
伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」と呼ばれる作業時の宿泊所跡があります。
更に急な階段を登り切ると「熊野神社」が現れます。
拝殿
拝殿に向かって参拝していると拝殿右側奥に赤い涎掛けのお地蔵さんが見えます。
拝殿裏と本殿
本殿は崖に寄り添うように建てられています。
赤いよだれかけは、子供の匂いを覚えてもらい守ってもらうという説)赤子(赤ちゃん)の赤という説)や、赤色には魔除けの意味があるという説や、長生きを願ったという説もあります。この立派な赤色のマントは「赤鬼の魔除け」でしょうかねえ。。。神社が建つ前はこの崖前の祠にお参りしていたのでしょうね。
いや~、階段降りるのもタイヘン^^;
赤鬼が築いた九十九の石段の話
昔、昔のお話です。 この田染の里に、毛むくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。
それを聞いた熊野の権現様は、何か良い方法はないかと考えました。
そして、いち夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。
権現様は、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっという間に五十段をこしらえました。
その早いこと早いこと、みるみるうちに九十九段築いたのでした。
おどろいた権現様は、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」と、にわとりの鳴き声を真似したのでした。
赤鬼は、「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。
熊野山胎蔵寺から磨崖仏を通って熊野権現様まで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段といわれ、今でも多くの人々に親しまれています。
~現地案内板より (胎蔵寺駐車場内)
階段を下りて「胎蔵寺」に寄りました。
なんじゃ~コレは???金色のシールがペタペタ貼られています。
「護符 (開運お願いシール) ただ今、胎蔵寺にお参りの方には「お願いシール」を差し上げておりますのでお申し付けください。 (住職等が不在の場合は、渡せないことがありますのでご了承ください。)
金色のシールをお不動さんや七福神、ご自分の干支の石像などにぺたぺた貼ってお願いするものです。
ほかのお寺では、七福神さんにそのまま拝みますが、この寺では護符を貼って初めて御利益があるというところが違います。
今から七十年ぐらい前から護符は貼っています。そのとき貼っていたのは、本物の金でした。行者仏教の場合は、本物の金をはります。ですので、すぐに持って行かれていました。 それから、こういうシールという形の護符に変わったということです。
胎蔵寺hpより
う~む・・・帰宅してからも、おふざけ現代風現世御利益寺と思ってましたが、金護符は70年の歴史があり、しかも昔は本物の金を貼っていたと・・・。究極の現世御利益信仰~開運引き寄せの「走り」かもしれませんねえ(笑
「胎蔵寺きちまろ坊主のオモシロ開運説法」は、大分国東のおもしろ歴史観光スポット「胎蔵寺」の住職、きちまろ坊主による開運説法。 なかなかユニークな住職さんですわ。ポジティブ思考で辛い人生を楽しく生きましょう~という感じですね。
「胎蔵寺は天台宗でございます。最澄さんでございますけれど、一隅を照らす、みんなのためにがんばろうとやっておりますので、別に宗派がどうのこうのということはありません。いつでも来れる寺、いつでも相談できる寺、そしてこんな不景気なときです。お金に困った人、どうしようもなくなった人、自殺を考えること、そのような困ってしまったときにアドバイスも致しますし、皆さんにがんばってお仕事をしてもらいたいというのが私たちの願いです。」
「およそ1300年前、養老2年(4年という説もある)に胎蔵寺は出来ました。東大寺奈良の大仏さんができる前からございます。
宇佐神宮が造った寺でして、六郷満山寺院といいます。六郷満山の峰入りは33回続いています。
胎蔵寺は五番札所になります。現在の住職で65代目となります。33代前の住職が紀州の熊野権現に行き、胎蔵寺へ熊野権現を御かいじんし、今熊野山胎蔵寺という名前になりました。熊野という名は平安末期のころから言われているということです。」胎蔵寺hpより
(2020.1 胎蔵寺hpをググってみたのですが見当たりませんねえ。。。)
お守り・・・・・・・思わず、買いましたよ^^
国東(くにさき)と苦逃幸来(くにさき)鬼 語源が同じで音の響きによって生まれた文字。菱の実でできています。
菱の両面が鬼面になっています。 古来より、国東地方では幸福が来る鬼として伝えられているそうで、持ち歩くものではなく、玄関の内側にかけると苦しみが逃げて幸福が来るというお守りですよ。
苦逃幸来鬼 (くにさきおに)
国東で昔から信仰されてきた鬼です。 苦逃幸来鬼は耳が大きいのが特徴です。なぜかというと、国東の島民、人間は神様、仏様、如来様、菩薩様に助けてもらえればいいのですが、その当時は、酒かっ食らって博打打って、そんな所に菩薩は来ない、如来はもっと来ない。
なので、せめて鬼くらいには助けてもらえるのではないかということでこのような形になったといわれています。
ですから、国東の民が「助けてください」と申します時のために、この苦逃幸来鬼は耳を大きくして、『民を助けにゃいかん』と耳をそばだてているからこそ、こんなに耳が大きくなっているのです。
国東の全てのお寺で苦逃幸来鬼を奉ってあるというわけではございません。 国東の三つか四つのお寺が苦逃幸来鬼を奉ってあります。 小さく、素朴なものがほとんどですが、胎蔵寺の苦逃幸来鬼は、現存するものの中で一番大きく形が整っていて美しいといわれております。胎蔵寺hpより
今でもパソコンの上にぶら下がっています。2020.1
熊野磨崖仏への入り口は、豊後高田市田染の田原山(鋸山)山麓にある今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)である。この寺の脇から急な山道を300メートルほど分け入ると、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段に達する。この急峻な石段を登ると左手が開け、岩壁に刻まれた2体の巨大な磨崖仏が現れる。磨崖仏の作者は不明だが、六郷山寺院の本尊寺宝等の記載もある安貞の目録には、深明如来の作とされている。実態は不明だが、磨崖仏の裏手には仏師が籠もったとされる洞窟(御所帯場と呼ばれる)などが存在する。
また、石段を登りきると熊野神社がある。
不動明王二童子像向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。鎌倉時代の作とされ、安山岩質の礫混じりの硬い岩壁に造られたため、彫り口がやや浅く、明王像ではあるが口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子像、制多迦童子像の痕跡が認められる[1]。
大日如来像(如来形像)
向かって右に位置する高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が遡ると推定されている。光背上部の種子曼荼羅は鎌倉時代の追刻。
通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形(にょらいぎょう)像」となっている。
熊野磨崖仏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2019年12月28日 (土) 04:29