2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。湯殿山神社から今夜のお宿の湯野浜温泉へ。途中、鶴岡市内の善寳寺(ぜんぽうじ)へ伺いました。
先日、佐渡の大野亀へ行ったときに下記の情報を得て、たまたま今回直ぐ近くを通るので立ち寄ったわけです。
佐渡島・大野亀
・細い道(参道)が頂まで続いていて狭い頂に石祠が建てられている。台座をいれると高さは2.5m。
・あまりの大きさに、麓からは石燈籠、昔の灯台のように見える。
・石祠台座には「明治廿八未年九月吉日」とあり、石祠内に「龍澤山善寶寺」の御札が納められている。
・善寶寺は山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺。海の守護神である龍神を祀るお寺として、漁業関係者に厚く信仰され、とくに日本海に面した道県で信仰されている。
・「龍王講」という漁民が主体となった信仰組織により、明治時代に流行神のように広まったらしい。
・善寶寺信仰は佐渡においても盛んだった。
・佐渡の海岸に祀られた善寶寺関係の石塔、石祠小社など60基が報告されている。石塔では善寶寺を象徴する「両大龍王神」「八大龍王」の銘が目立つ。
・賽の河原(二ツ亀と大野亀の間)海岸近くの窟屋に納められた地蔵たちは、奥の方に古い佐渡の地蔵たちが不規則に並び、手前には新しい地蔵が整然と並んでいる。
善寳寺(ぜんぽうじ)は、曹洞宗の寺院。
山号は龍澤山(りゅうたくさん)。本尊は薬師如来。
妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所の一つ。地蔵菩薩像 大きいです。
総門(登録有形文化財) 「善宝寺龍王講」の札が掲げられていますね。
すごい装飾彫刻です。
安政3年(1856年)に再建された十二支を主体とする細やかな彫刻の総門。
総ケヤキ造り。この優れた彫刻は棟梁の剣持藤吉30歳頃の気迫の込められた作。特に獅子の造形と迫力は一見の価値あり。戦時中に十二支の酉(とり)が盗まれ、一支欠けています。辰は龍の姿では彫刻されていませんので、よくよく探してみてください。
http://ryuoson.jp/奥は「山門」
龍の持つ宝珠 龍は何処に・・・??
山門
文久2年(1862年)再建。慶応3年(1867年)5月27日に上棟式を挙行した記録があります。
構造は複雑で彫刻は至妙なる総ケヤキ造り、銅板葺きの楼門です。
門内部両脇には右に「毘沙門天」左に「韋駄天」が門を護ります。
一般にお寺の門には仁王像が安置されることが多いのですが、廃仏毀釈の折、善寳寺に避難してきたこの両尊天像を安置したと言われております。
山門正面円柱の唐獅子は棟梁の嘉右衛門の作であるのに対し、後方の獅子は棟梁の弟富五郎の作であり、兄弟で技を競い合って力作したものであります。
山門二階楼上内部には秘仏である十六羅漢像が安置されておりますが、一般への公開はしておりません。
梁間に架かっている額縁には善寳寺の山号である「龍澤山」と書かれており、これは江戸時代活躍した鶴岡出身の能筆の名僧「不幼老卵(ふようろうらん)」が書いたものであります。遠くから見ると小さく、門に近づけば近づくほど鳳凰が羽を
広げるかのように壮麗に見えると言われます。
http://ryuoson.jp/facility-information/五百羅漢堂
安政2年(1855年)建立。531体もの羅漢像は顔の作り・表情も、着物の模様のデザインからポーズまで一つとして同じものはなく、衣の模様やデザインに至るまで同じものはありません。
北前船で財を成した商人達の寄進によって建てられた、北前船西回り航路の繁栄を感じさせる貴重な文化的遺産です。
「亡き人の面影しのぶ五百羅漢」と詠われるように、かつて写真のない時代には亡くなった人に似た顔を五百体の中から見つけて、そこに手を合わせたと言われます。
正面は釈迦三尊、十大弟子が祀られ、柱上には風神雷神、左右台座上には東西南北を守護する四天王が安置されしております。
現在東北芸術工科大学様の協力の下、五百羅漢像の修復に取り組んでおり、一体一体丁寧に修復作業を進めております。
http://ryuoson.jp/facility-information/残念ながら拝観時間が過ぎていて見ることができませんでした。それにしても古い建築物が多いです。
本堂
本堂の裏手に龍王殿があります。
龍王殿
開山の太年清椿大和尚が室町時代後期文安3年(1443年)に守護神の龍神様を祀るために創立したと言われ、天保4年(1833年)に再建された権現造りの荘厳な伽藍です。
屋根は現在銅板葺きとなっておりますが、かつては茅葺(かやぶき)屋根であり、その形は波のうねりを表し日本古来からの茅葺技術の粋を集中したものであったといわれます。
この龍王殿は龍の王が棲むといわれる竜宮城を模して造られ、彫刻には滝登りをして龍に変化しようとする鯉や、波しぶきが彫られており、龍と海との繋がりを表しているといわれます。
建物内部右手には善寳寺の歴代住職の位牌堂、中央の菊の御紋の奥には有栖川宮家様の御霊牌所となっており、左手の金色の扉の中には善寳寺龍道大龍王、戒道大龍女の二龍神が奉安されております。
2016年には善寳寺開基龍華妙達上人様の生誕1150年を記念してこの黄金の扉がご開帳され、史上初めて龍神様のご尊体が一般に公開され沢山の方々より手を合わせて頂きました。
http://www.zenpouji.jp/wp/sanpaiここから発した龍王信仰が日本海、佐渡へと海の安全を願い広まっていったのでしょうね。
山門からの参道階段を下り、五重塔方向へ。
弥勒菩薩
かつて宝暦年中に当地方を未曽有の大飢饉が襲い、悪病が流行しました。 当時の住職(二十三世喝禅方丈)はこれを深く嘆き、病魔退散、五穀豊熟を強く願い、この巨大な弥勒尊像を建立しました。
弥勒尊さまの周囲に安座されている七体のお地蔵様は、元々は羽黒山におりました。 明治初期の廃仏毀釈の際、川に沈められようとしていたお地蔵様を当時の住職(三十三世禅山方丈) が聞き及びそれを譲り受けてここに安置したものです。 正面の額は「龍華楼(りゅうげろう)」と読みます。
https://ameblo.jp/kamigamino-sasayaki 様より。五重塔
明治26年(1893年)建立。材料は総ケヤキ造り、屋根は銅板葺き、高さ38メートルの大塔は「魚鱗一切之供養塔」(ぎょりんいっさいのくようとう)として、海の生き物達の供養塔として漁師をはじめ海に関わる人々の願いと祈りを受けて建立されました。
内部には仏の5つの智慧を表す五智如来が祀られます。
正面:釈迦如来 東方:阿閦(あしゅく)如来 西方:阿弥陀如来 南方:宝勝如来 中央:大日如来(芯柱円柱がそれを表す)
善寳寺には昔から夜になると音を発する「夜啼き石」という不思議な石があったが、それを塔建立の際に礎石として中央に納めたといわれ、それ以降石が啼くことはなくなったと言われます。
建立から一年余り後明治27年に起きたマグニチュード7.0の直下型地震である酒田地震大火の際にも、また先の3.11東日本大震災の際にもヒビ割れ一つなく建っておりました。
大日如来を表す芯柱は塔中央に上から下へ分胴のように吊るされており、振子の役割として免震構造になっており、大地震からもお護りいただいております。
塔の側面には十二支が3体×4面に彫刻されており、自分の干支を見つけて、その方角から手を合わせるとよいと言われます。
総門と同じく、辰年だけは龍の姿で彫られてはおりませんので、そちらも探してみてください。http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai
凄いお寺でございました。平日の夕方だったので参拝者も少なく、悠々とした時間の中でゆっくりと空気・空間を味わうことができました。感謝感謝^^
行った当時、情報を持ってなくて・・・・奥ノ院の「貝喰の池」へは行けませんでした。あ~残念^^;
その後、湯野浜温泉へ。
湯野浜温泉
庄内平野・鶴岡市の西部、日本海に面した海浜の温泉郷です。もとの名は“亀の湯”と称され、天喜年間(1053~58年)に付近の一漁夫が海辺で温浴している亀を見て、この地に温泉が広まったという故事に由来します。
そして奥州三楽郷の一つとされ、上ノ山、東山と並ぶの歓楽地として栄えました。
2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。翌日は羽黒山・出羽三山神社へ。途中、大きな鳥居が目に入ったので参拝致しました。
大きな鳥居です。
立派な拝殿です。境内にクルマが数台止まっているものの誰も居りません。ん?張り紙を見ると・・
あ~、「春の湯殿山参り」で氏子さんたちが集まってお出かけになられたのでしょう^^
本宮三宝荒神社(もとみやさんぼうこうじんじゃ)
御祭神
三宝大荒神(高皇産霊大神、天之御中主大神、神皇霊大神)
天照皇大神-歴代皇室御神霊
出羽三山大神-蜂子大神
産土大神-八百万大神出羽三山が蜂子皇子に開かれた593年の後、皇子が月山山中で御修行の折、東補陀落山に三宝荒様が御出現なされ、大自然から人間が学ばねばならぬ生き方を教えていただいたのが始まりだそうです。そしてその場所(月山山中にそびえ立つ岩石)を、『三宝荒神岳』といい、当神社の奥の院として羽黒派古神道を修行する山伏達を始め、多くの修行者達が登拝しているそうです。(本宮三宝荒神社案内書より)