神奈川・平塚エリアの神社を詣でました。前鳥(さきとり)神社、三嶋神社を参拝後、平塚八幡宮を参拝しました。
境内入り口には寄進札板がずらりと掲げられています。やっぱり板が大きいのは高額の寄付された方なんだろうなあ。
一の鳥居 境内入り口
狛犬もコロナ対策^^
西御池 鳥居をくぐると左右に大きな池があります。
アオサギくん この神社、アヒル、カモ、ハトなど沢山の鳥さんが賑やかでしたよ。
東御池 鯉がたくさん^^
鶴峯山稲荷社
東御池の浮島に平成28年鎮座。元宮は平塚市八幡鎮座の八坂神社末社の川余稲荷だそうです。
立地の雰囲気からして厳島神社や弁財天かと思ったらお稲荷さんでした^^
御神木 クスノキでしょうね?すごいおみくじの数です。
二之鳥居 江戸時代の明和2年(1765年)の青銅製
立派な鳥居でしたよ。
神厩舎(しんきゅうしゃ)
御霊分けし創建された岐阜県高山市の櫻ケ岡八幡神社に縁のある近くの牧場で、生まれた。両親が栗毛なのに白毛だった事から、神が騎乗するとされる県内唯一の「神馬(しんめ)」として令和元年天皇即位記念に奉納。天皇が即位した5月生まれなので「皐月(さつき)」と名付けられた。
残念ながらお休み中で見れませんでした。。。。
拝殿手前左に鎮座する境内社 神名社・若宮社・諏訪社
拝殿
拝殿
拝殿 立派な拝殿です。
拝殿へ続く回廊沿いの間 美しいです。
拝殿右から廊下をくぐり本殿へ。
うらまいり 本殿の裏
このように本殿裏に案内されるような神社はあまりないかもしれません。
「うらまいり」についてはググってみると神社によって意味が違うらしいです。
ここの神社での裏参りについては分かりませんでしたが、神様にそっと囁くように願うとか、裏の方が神様に近いとか、堂々と云えない願いをするとか、えびす神に至っては耳が遠いからとか・・・^^;
この神社には、「こころのみち」とも書かれていますね。それぞれの方の祈りで良いかと^^
拝殿脇 ベニヤ板の模様がアートのようでした^^
冬青・・・植物のソヨゴの事で、諏訪大社などでは榊の代用としているようです。この御霊分けし創建された岐阜県高山市の櫻ケ岡八幡神社さん、神馬も奉納されていますね^^
全国の絵馬が飾られていましたよ。
隣接する「つるみね幼稚園」
子どもたちの元気な声が響いていました♪
境内風景
平塚八幡宮に、昔話で同神社にゆかりがあるとされる「奉遷塚(ほうせんづか)」が建立された(2021)。奉遷塚は「災いを封じる塚」であるとされることから、コロナナ終息の願いも込められているという。
浄銭池
西御池
弁財天社
西参道入口
平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)は、神奈川県平塚市浅間町(せんげんちょう)にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神:応神天皇 神功皇后 武内宿禰命古くは「鶴峯山八幡宮」(つるみねさんはちまんぐう)と称されたほか、「一国一社の八幡宮」「鎮地大神」と称えられている。毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(かみそろいやま)で行われる旧相模国の伝統的な祭事、国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の一つ(五宮格)であるが、同国における延喜式内社ではない。
社伝によると仁徳天皇68年(380年)、この地方を襲った大地震に際し、仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建されたものである。天平勝宝年間の古記では、顕宗天皇が膳部料を献じ、仁賢天皇が四千余町の神領を寄進したとしている。また、推古天皇時代(592年 - 628年)にも大地震があり、推古天皇は「鎮地大神」の親筆を捧げて国家安穏を祈願すると共に社殿を造営した。さらに天武天皇がこの地の税の3分の2を寄進、文武天皇が宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納したと言う。
寛永14年(1637年)に書かれた『相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記』[1]によれば、当社は石清水八幡宮より130年以上前の神亀年間(724年 - 729年)に宇佐神宮から勧請を受け、これにより当地が八幡庄と呼ばれるようになったのだと言う。さらに聖武天皇より相模国における一国一社の霊場とされた。『新編相模国風土記稿 巻之48』[2]では、神亀年間に聖武天皇が諸国一宮へ法華経を納めた際、当社へも納めたのだとする社伝を紹介している[3]。
『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を祈願した神社として「八幡宮」の名が見え、この時に神馬が奉納されている。『新編相模国風土記稿 巻之48』[2]では、当社は古より相模国第五格とされていたが八幡宮とのみ称して自身を五宮とは唱えていなかったと注記したうえで、『吾妻鏡』建久3年8月9日の条では単に「八幡宮」としか記載が無いが「四宮前取大明神」の次順にあることから考えて、これは当社のことであると述べている[3]。
『相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記』[1]によれば、武田信玄が北条氏康を攻めた際、当社は陣所とされて戦火に遭い、社殿や旧記・古縁起を焼失した。
天正19年(1591年)徳川家康が御朱印地50石を寄進した。また、慶長年間(1596年 - 1615年)には徳川家康が自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させている。さらに正保3年(1646年)江戸幕府は社殿営繕料として山林2ヶ所を寄進した。明和2年(1765年)平塚宿の僧侶本誉還真(ほんよかんしん)が18年間集めた浄財で青銅の鳥居を奉献した。『新編相模国風土記稿 巻之48』[2]では、東海道の北側に「鶴峯山」の扁額が掛けられた青銅鳥居があったと江戸時代後期の社頭景観を伝えている[3]。
明治に入り近代社格制度が制定されると当社は県社に列せられ、明治6年(1873年)官からの達示により社名を八幡神社と改称している。明治27年(1894年)、明治天皇の皇女常宮昌子内親王、周宮房子内親王が参拝し社殿の前に松を御手植、神池に緋鯉を放生した。
第2次世界大戦の終戦後に近代社格制度は廃止されたが、昭和28年(1953年)当社は神社本庁が包括する別表神社となっている。昭和53年(1978年)8月に現在の社名である旧称の平塚八幡宮へ改称した。
平塚八幡宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年12月5日 (日) 07:00
池の事にかんして、ググってみると、湧き水の池であるようなのですが、浄銭池から硫黄の匂いがすると散見されました。境内裏手にはかつて、広大な海軍の火薬工場があり、その影響で地下を通るこの水に硫黄が含まれているらしいとの事(その跡地は現在、横浜ゴムの工場)。
70年経った今でも戦争の臭いが残る地ということですか・・・・。
この池に関する事は帰ってから知ったのでした。境内では、鳥の鳴き声や子どもたちの声が響き、明るく良い空間だと思いました。「鎮地大神」、地震に対して地を鎮める神を祀ったのが発端ですから、大昔から人が介在してきた空気は感じ取れましたね。
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