2018.2 大磯町方面へ神社参拝に行きました。春霞、暖かな一日でした。高来神社、六所神社参拝後に川勾神社へ向かいました。グーグルマップの航空写真地図を見ると、高麗山や二宮町の隣の吾妻山などは太古の時代、島だったように見えますね。
延喜式式内社・相模国二之宮 川勾神社 境内入り口
川勾神社は、神奈川県中郡二宮町に鎮座。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、同国二宮とも。「二宮町」の名は二宮である当社にちなみ、古くより「二宮大明神」、「二宮明神社」とも。
一の鳥居
隋神門 藁ぶき屋根で古めかしく良い感じですね。
むむ・・・ここの隋神像、かなりの年季が入っています。ガラスの反射でうまく写真が撮れなくて残念。。
櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)と豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)の像
川勾神社隋神像について上記のような掲示がありました。
なんと、神奈川県下における現存最古の隋神像との事。制作時期はその特徴から12世紀と考察されるそうです。スゴイですね^^
広々とした境内です。
拝殿
・延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格された。
・前九年の役と後三年の役の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。
・『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「二宮河匂大明神」に祈願し、神馬が奉納したとある。また、源頼朝は同じ建久年間に、社殿造営と若干の社領寄進を行った。
・ 建長4年(1252年)に宗尊親王が鎌倉に下向された際は将軍事始の儀として当社に奉幣神馬を奉納したと言われ、鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したとの記事がある。
・『川勾神社誌』によれば応永年間(1394年 - 1427年)の兵火により社殿宝物など焼失し、随神の木造だけが残されたのだと言う。
・永禄4年(1561年)上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿が焼失したが、その後の元亀年間(1570年 - 1573年)に後北条氏によって再建されている。
・『川勾神社誌』によれば、当社は小田原城の丑寅の方角に当り、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けたのだと言う。
・天正19年(1591年)徳川家康が朝鮮出兵のため九州名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、御朱印地50石を寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、これが幕末まで続いた。
・安永9年(1780年)暴風雨によって社殿が著しく破損するも、天明7年(1787年)に神主二見氏が再建、この社殿が昭和初期まで至っている。
川勾神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2020年5月20日 (水) 07:59
本殿 よく見えないですねえ。。
主祭神:大名貴命 大物忌命 級長津彦命 級長津姫命 衣通姫命
石鳥居 何処に建てられていたのでしょうね。
東五社御祭神
西五社御社殿
どちらも新しい末社です。境内西側、東側にありました。そもそもあった境内社を綺麗に建て直したのでしょうか。
社務所正面の神輿殿
社務所前ではお茶やミカンを「ご自由にどうぞ」と^^
近くに臨時駐車場がありましたので時期には相当な人手になるのでしょうが、この日は数人しか参拝者がおられず、とても静かな境内でした。とても綺麗にされている境内でしたが深い歴史を蓄積している地場は感じましたよ。
ここの神社のhp、素晴らしいです。宮司さんのお話のyoutubeもblogも頻繁に更新されています。
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