あさに見えくる熊笹や建具の
ひまの畳の上におめきし赤きひとの
室に小さき虫の迷ひぬる前より既に大きなり
いづこまで大きなるらむ
なにと行合ひ いかが死ぬや
憂ひは尽きねど思ひやりも尽きず
その指の数超えておめき求むる内
数へらるるものならすべて与へむ
人になり人にあらずに様変わるまで
やがて射す陽の中に今は溶けありぬべし
詞を読み古語にしてみるほど、子育ては楽しい。しばらくの間日記を付けてみたのだが、前日を思い返しても殆ど覚えていない理由を考えてみた。子育てに関しては明快だ。楽しくて没頭してしまうからである。面白いや愉快ばかりでないし、諍いや葛藤も不安や失望もこれから出てくるだろうが、子の変化に対応するという、自然で明快な行動をしている実感が楽しい。またその変化が速く、感じることにも忙しい。変化への対応に夢中になっている間、自分がすることの中に自意識の入り込む隙間はほぼない。だから覚えていられない。寝不足もあるが。
子育て以外の覚えていられないことについてはどうか。「繰り返し過ぎて滑らかになりもはや意識できない」習慣、「夢中になれるものがなく記憶自体をしない」退屈、「現実を受け入れられない」苦痛などが考えられる。個人の物事の捉え方、社会との兼ね合いの取り方の話でもあるが、人が群れから求められるのは多くの場合<変わらず同じでいる>という不自然さであると思う。それは信頼と呼ばれることもあるが、変化に没頭することの対極にある退屈さや、現実逃避にもつながっている。人工的過ぎる現実は、覚えていたくない。
自然な変化を受容し合える群れは国や自治体では規模が大き過ぎる(知らない人が多過ぎ、また距離が遠過ぎる)ので、自分が存在することで自然発生的に出来上がっていく知り合いやご近所など、自然に繋がることができ、互いの顔がわかる範囲に限られる。そこを充実させ無理なく関わり合える状態にすることが、楽しく生きていく為に必要である。同時に他の群れの存在も眺め、同じ人間の群れが無数にあるという自覚も、群れ自体の存続のような大きな変化に対応する為には必要なのだと思う。
<変わらず同じでいる>不自然さは、群れから求められるものと書いたが、個人の中でも同様の不自然さが求められている。いわゆる自己同一性というやつで、固有の記憶を繋ぐ主観的な私がどういうものか、客観的にまた社会性を含めて認識している。姿かたちはともあれ、趣味嗜好、常識、思想、倫理観、習慣など内面の私の核となるものの変化は嫌いがちである。いつもと違うことはエネルギーを使うのでストレスになるからだ。他者の表現や在り方、特に芸術はこの核を揺さぶり変化を促す(しかも好ましい驚きを持って)ことがあり、自然な存在として生きている実感を得る為に、とても重要なものである。
楽しく生きるには没頭できる時間が要る。私の「生きてるだけで満足」という在り方、それを課しているのも自分なのであり<自分である事>それ自体が、最も自分の意識を不自由に、感動や欲望すら制限している。だから自分である事から解放されている時が最も楽しい時間なのである。「わからないとは楽しいこと」だが、子育てを始めて「わからないとは不安に属するものでもある」ことを思い出した。一人ではどうにもできないことがあるというのも、大切な自然の在り方の一つだ。赤子を育てるにあたり、自分の在り方の総点検も迫られている気がするし、全部ほったらかして現在の変化に夢中になっていればよいとも思える。楽しい。