他者の気持ちがわからない。わからないのにどう共感すればいいのか。特に社会的な気持ちの機微を敏感に感じ取れない私のような者には、根本的にはどうしようもないことかもしれない。だが自然観察にヒントがあるような気はする。風に揺れる木々の葉を見るように、目の前の人の感情の揺れを見るのである。葉を揺らす風を自分も感じているように、揺れる対象と同じ時間と場所を共有している。自然として互いの変化を感じ取ればよいのではないか。変化の内容自体は異なっているだろうから、わからなくてもよいのではないか。だが言葉で捉えたつもりになっても、それは自然な共感ではない。自然を自分が理解できる形に歪めてしまっている。言葉で捉えがちな人間だからこそなのか、悩みの有無に関わらず、私は近所の川によく出かける。
自然は同時多発的に変わり続ける。風や水の流れなどリアルタイムに観測できる変化だけでなく、長いスケールで見ると川の流れそのものの変化もある。地球の自転と共に1日の中でも差し込む光は変わるし、時間をかけて観察し変化に気付けるようになるには、何度もその場に繰り返し佇んでいるしかない。私は佇むのが好きなのだが、佇むという行為自体には、変化に気付きたいという目的はない。自然と目に入ることで変化に意識のベクトルが向き観察が始まる。最初は目の前で起きていることはわかるが、それが何と関連があるのかはわからない。その場で観察する経験が増えると、着目したものに対する解像度も上がり、変化の関連を見出せるようになってくる。またどこに着目するかで、経験自体も変わってくる。だがやはりその事象の変化は、実際には自分が考えた通りではない。観察して類推するまでが佇むということである。
他者からどう見られても構わないというのとは別に、他者に見られているということ自体を忘れてはならない。観察しているだけの存在は有り得ないのであり、自分で自分を景色や透明人間のように捉えていたとしても、存在しているだけで周囲に多かれ少なかれ影響を及ぼしている。本来は存在すること自体が、流れを変えてしまうことなのだと思う。流れとは各存在毎のタイムラインであり、それらの集合で生じる場の変化のことである。川に石を投げるなど意図的に変化を加えようとしなくても、佇んでいるだけでその場に影響してしまうのだ。私が川岸にいることで、そこにいられない鳥や人が生じる。変化を観ていただけのつもりでも、同時にその場の変化に寄与しているわけで、自分の存在は他者の存在にも影響を与えているのである。その変化に対して「こうかな」と思ったものを重ねてみるならまだしも「こうに違いない」という思いを押し付けるのは、共感ではなく支配の始まりであると思う。
「関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。」
『急に具合が悪くなる』より 磯野 真穂さんの言
録画されたテレビやYouTubeを観ている時のように、全ての時間を完全な傍観者のような気持ちで生きていると、頭の中にある世界しか認識できないような、不自然な存在になってしまう気がする。それは一見無力なようでいて、他者の自然な在り方を脅かす、暴力的な存在である。自分の頭の中にある世界以外の存在を脅威と捉え、意識的にも、無意識的にも排除しようとするからだ。自分が他者も含め物事を知らない内に決めつけていないか。他者の気持ちはわからないままでも、わからなさ自体を抱えて生きていくことも、自分の存在の影響を自覚していることも可能だ。川の傍に佇んでいると、共感について考える以前に、自分を省みることも多いのである。