死ぬまでにしてはならないことは沢山あるが、しなければならないことはひとつもないと思っている。自分の意志でできることをすればよい。生殖も行為のひとつに過ぎず、自分の意志だけでできることではなく、またしなければならないことではない。それなのに子供を作らないのは罪だ、生産性がないなどと非難されるのは間違っているので、そんな風に言う人は仮に身内であっても蔑んでよい。ただの馬鹿である。子供は大人全員で守るものだ。
セクシーとは性欲を刺激されるさまである。刺激されるという以上、見る側にかかっている。性指向も複数存在し性嗜好に至っては千差万別である。世の中には性欲がない人もいるのにそれはないことにされたり、病気だ異常だと非難されてきた。また老人(特に女性)には性欲があってはならないと決め付けられ、見苦しいなどと非難されたりもしている。何故これほどまでに性の在り方を単一に強制されねばならないのだろうか。中世の魔女なんてただの自立した女性から始まったものだと思う。
端的に言えば、経済的な影響力が大きな理由のひとつだろう。性欲を刺激された人は思考が鈍らされるので制御し易く、金銭を巻き上げたり、社会的立場をおびやかす行為を誘発したりもできる。また芸能人をモデルに一般的なセクシー類型を広めることで、単一指向のルッキズムを強化し、ダイエットや整形、化粧品販売、アンチエイジングなどの商売ができる。社会における影響力のため、セクシーであることは生物として素晴らしく価値があることのように宣伝されてきた。
なぜ影響力が強いのかといえば、性欲が生物の根本的な欲望のひとつとされているからだ。実際、生殖に興味を持つのは多くの人にとっては自然なことなのだろうとも思う。また性細胞や器官の成熟と衰退の間には生殖適齢期というものもある。思春期には恋愛とも結びついて、セクシーであることが強烈な動機付けを強いてくることもあるだろう。ちなみにセクシーでありたいと思う時の動機も様々で、特定の相手がいる場合は生殖または生活を共にしたいという個対個の動機、モテたいとかちやほやされたい場合は承認欲求や金銭欲に結び付く個対多の動機である。ただ自分に社会的に自信を持ちたいという動機もある。全てはセクシー至上主義とでも言えそうな、偏った価値観が宣伝された結果だと思う。
改めて書くが、セクシーを参照したり利用したりすることはあっても、元々性欲のない人もいるのである。生殖はしなければならないことではなく、強制などされてはいけない。男性の女性への加虐嗜好は平等の見地において絶対に認められない。性欲を刺激された時に即対象との性的行為を望む人などは問題外である。知識がなく現実への理解も乏しく愚かだ。古い社会では行為としての生殖を必要以上に重要視し、表現としてのセクシーを影響力の強さゆえに称賛してきた。その結果、性は暴力にも利用されることとなり性加害は止まない。性教育を受けないまま大人になると、セクシーな表現を目にすると即対象との性行為を想像するようになる。セクシーな表現では体のパーツを強調するので、日常的に他人の体のパーツを狭窄的にセクシーかどうかで見るようになるのだと思う。性暴力を考える時、セクシーな表現自体に問題があるのではない。セクシーさを過剰に良いものとする価値観を促進する環境と、セックスについて自分が他人にしてよいことと悪いことの線引が出来てない男性を量産している現状に問題がある。
私は性欲はあるが、ろくな性教育も受けないまま無数のセクシーな表現を目にしては性欲を刺激され、振り回されてきた。子供の頃から男社会の中で誰が好き?というのは誰とセックスしたい?という問いと同義だった。私も含めて大半が異性愛者だった為、女体は胸の大きさなど数値で評価され、モノ、獲物として消費されていた。だが生物としての魅力には性的なものが関係ないものの方が遥かに多い。スポーツや絵や演奏などに夢中になってる姿にも当時から魅力を感じていたが、性的な魅力(ヤリたいかどうか)が一番重要と思っていた。だって大人がそうしてるから。環境を作れなかった大人は悪いが、私自身誤った振る舞いをしたことも有ると思う。行為の責任は私が負うものであり、間違った価値観を自分に都合がよいものとして疑わなかった私の愚かさの為である。性教育の充実は急務だが見直されることなく、セクシーな表現の称賛、流布が優先されている。ルッキズム礼賛、女性差別も解消されないまま、日本は性犯罪大国になっている。
世阿弥の『風姿花伝』でも「時分の花」として若い生命は期間限定の魅力を持つと書かれている。そして期間は関係ない「まことの花」として、人間そのものの魅力について語られている。「時分の花」を必要以上にもてはやすのは愚かなことであるということは、中世から言われているのである。大概、肉体的に成熟する時の人間は精神的には未熟である。大人に合わせて振る舞うことは出来ても、自分の意志や価値について自覚がない場合が多い。性犯罪大国では子供(特に未熟な女性)を保護するより、性的に搾取しようとする為にセクシーがもてはやされている。ただの肉体の成熟の状態にしか過ぎないというのに。一体いつまで愚かなのだろうと思う。
何歳であっても生殖可能であることを誇らしげに主張する男性に言いたいのは、今すぐ他の魅力に目を向けられる教養を身に付け、現実を見る感性を養いなさいということである。お前の射精に社会的な価値はない。確かに精子を提供することにより新たな子供は生まれるかもしれない。子供はお前よりは多くの可能性を持つだろうが、それは理由にならない。してはいけないこと、即ち暴力で他人を傷付けてまで正当性が認められる行為ではないのである。お前の子供もお前のものではない。現在もそんなことをしている男性は殺されてしかるべきであると思う。
生殖ではなく性的オルガズムが人生の重要な目的であると言う人もいるかもしれないが、射精時に脳内に快感物質が出るだけのことである。自分一人でできる表現行為に没頭することでも同様の、またはそれ以上の快感物質が出るのである。快楽に溺れたいのなら一人でその道を究めなさい。周囲を巻き込んではいけない。オルガスムの状態は忘我でもある。耽美にうっとりしたいのなら映画やレビューや小説でもいい。現実逃避は自分一人で意図的にしようと思ってしなさい。自分だけの価値観の押し付けをやめなさい。インプットした情報を消化して表現としてアウトプットされる情報はうんこと変わらないかもしれないが、肉体的な射精よりずっと価値がある。脳内の快楽物質と、腸内環境は自分一人で整えることができるのである。
セクシー礼賛、生殖礼賛の社会は単純で進化がない。その幼稚な価値観を内在化して疑わない特に男性には、セックス以外の生の喜びを見つけてほしい。動物を飼うのもよいかもしれないが、そんな単純な頭では言う事をきかないと弱い動物を虐めてしまうのではないかと心配になる。まずは一人で、美味しいサンドイッチを作れるようになれ。それを持って自然を見に出かけろ。そこに流れる空気や陽射しや湿度を感じろ。美味しいものを食べて、よいウンコをして寝ろ。と思う。最近某舞踏家が死んでしまったのだが、セクシーにこだわりながらずっと表現活動をしていた。大概の他人には優しかったと思う。だがそのこだわりは古くないかと怒りたい。価値観のアップデートを頑なに拒んでいなかったか。知らないから他人が怖かったのだ。知ることでもっと堂々と振る舞えただろうし、閉鎖的な自分の内面世界を外側から見ることでより表現力を増しただろうと思う。面白かったのに。死にやがって。