歌を歌う時、滲み出る感情や思考を意識しながら声を置くように、ものを見る時にも視線を制御してみる。焦点を合わせる速度や、視点を留める時間などである。意識してやるとわざとらしく、笑ってしまう。他者には何をしているのかわからず怪訝な顔をされるだろう。体を使うことには感情や思考の影響を受けるという共通点があり「これをしている時の感覚や気持ちの状態」みたいなものも記憶されている。それらを想起することは可能なので、走るように食べたり、聞くように歩いたり、叫ぶように排泄したりといった、異なる動きに当てはめてみることも可能である。そんな遊びをしていて気づくのは、普段は感情や思考が起こるより先に、既に見たり動いたりしているということだ。この、私の体を意識より先に動かすものはなんなのだろうか。
少なくともそれは欲望ではない。欲望とは不足を埋めたい気持ちのことで、意識的に過ぎる。また私は他者や自分への期待がなく、ああしてもらいたいとか、あれが欲しいとか、あれになりたいという気持ちがない。それでも毎日楽しく体も元気に動いているので、私を動かすのは欲望ではないと思われる。それはむしろ出来るだけ死なないように、苦しくないようにしようとする、本能の方が近い気がする。無意識にあるものを言語化するのは難しいが、感覚としては知っている。どこにでもある木々の葉のざわめきや風、何かを焼く匂いなどに、同じものを感じることもある。それは「今この場にあるものが如何にしてあるのか」という、存在していることについての本質的な仕組が、私の体も同様に動かしているという直感である。
致命的な問題に直面していない時、私は表面的には満足している。生きていられさえすれば諸行無常で構わない。生きる為には変化への対応が要るのだができる限りでよく、対応しきれなくても死ななければ問題はない。致命的な変化なら必死にもなることもあるが、それもまた生きてる実感が強くなって、そういう意味ではよい。当然ながら想定外の変化も起こる。急に具合が悪くなったり、災害に出くわしたりもする。できる限りの手段を講じても対応しきれなかったら、死ぬだけである。そもそも寝ないと死ぬし、食べなくても死ぬ。排泄できなくてもやっぱり死ぬ。1mの高さから落ちて死ぬし、毒に当たっても車に当たっても死ぬ。その全てを避けることができても、体の使用限界が来たら死ぬ。今すぐ死ぬことは避けて生きているが、死は生の一部であり、自然でシンプルで清々しい。ただ苦しいのは嫌なのでなんとかしたいところではあり、いずれ真剣に方策を考える必要がある。
死ぬのは仕方ないと思う一方、生きている限り問題は常にあり、自分や自分が大切だと思うものたちを苦しませる出来事も起こり得る。生活において必要な金銭を稼ぐことをとっても、私が体を壊したり仕事相手にそっぽを向かれるだけで簡単に危機に直面する。具体的な問題を想定できれば対策は可能である。生活の問題なら計画性のなさに起因するので、破綻する前に回避できる代替案の用意が必要だ。だが全てを想定できる人はいない。考えもしないところにある問題も、表面化する機会さえあればいずれ顕現する。問題がどこから発生するのかといえば、欲望であり、妄想であり、無責任さからである。矛盾の自己正当化、絶対的な安定のような都合のよい状態を求める気持ち、破壊欲求などから来る。多分宗教では向き合い方が示されるのだと思うが、これらは生きること自体に含まれていて、取り除くことはできない。死がシンプルなのと対照的に、生は無秩序なカオスである。倫理や道理以前の欲望も、本能の近くにある本質的な仕組の特性により生じている気がする。
私はファミコンで遊ぶのが好きで、ファミコンで育った。ゲームはコンピューターの性能により表現力に制限がある。この不完全さや不自由さは、さぞ作り手の知恵と想像力を活性化させただろうと思うが、遊ぶ側もそれは同じだった。想像力を働かせ、意識を自由にすることで最大限にゲームを楽しめる。なぜ将棋や囲碁ではなくファミコンだったのかというと、画と音による表現、そしてコンピューターというリソースは「限界への挑戦」ということが分かりやすかったからだ。現状「ここまでしかできない」という限界が課す不自由さが、容易く想像を呼び込んだ。不自由と言っても、権力のように参加者の意識を縛ることは指向されていないので、架空の世界に無限の空間と時間を知覚することができたのである。限られた条件が新しい発想の鍵になるというのは、どんな状況でも生を楽しむということにつながっている。
先に「欲望は不足を埋めたい気持ち」と書いたが、制限や不自由さへの別の向き合い方として「不足自体をなくす」方法もある。新しい発想で不自由自体を楽しむのとは正反対に「制限や不自由がなくなるまで資源を注ぎ込む」。コンピューターで言えば、莫大な資金と時間を使って目的を達成できる機材を開発する等だ。欲望が科学を発展させるのである。理論的にはコンピューターの性能に限りがないように、欲望にも限りはない。満たされた瞬間に不満が生じる。欲望を持つこと自体が欲望を加速させていく。何故生の仕組の中にかような限り無いものがあるのかといえば、非実在の存在は想像さえできれば必ず実現できるという、人間の業めいた確信の為だと思う。現在この世界には過去にはなかった人工物が無数に存在するのであり、実績が確信を裏付けてもいるのだろう。できると思えばやらずにはいられず、人は無限のリソースとか無限のエネルギーを夢想し、実現の為に努力を惜しまない。
欲望に関することは、私にはよくわからない。人間の体が限界だらけであるように、その理解にもまた限界がある。私にわかることは私にわかる形に限定されているし、ファミコンよりも複雑で遊び方の可能性も無限に近いとはいえ、私だけが遊べる「人間の私」というゲームや物語は私の体に制限されていて、遊べる時間も限られている。だがその限られた人生の中でも、私を私(の意識)より先に動かしたり、時に欲望を発生させる仕組はこの世界にあるものと共通していて、そこにはやはり欲望もあるはずだと思う。自分の手で何でも実現し得る可能性を、担保し続けているような気がする。それは私以外の存在にもある訳で、世界中で起こり続けるいいこともわるいことも、生という混沌そのものの仕組から来ているのだと思う。カオスは非実在ゆえに、無限の可能性がある。破壊も創造も指向性の違いだけで根は同じだ。
ここまで読んでくれる人は妻をおいて他にいないだろうと思うが、実は今日の午後、妻が子を産んだ。計画的な帝王切開で、妻が手術室に入った15分後には私も手術室へ案内され、子供が取り上げられる瞬間を目撃した。丁度3000g、49.5cmの男の子で、想像していたよりスタイルがよく、いい声で泣いていた。妻の赤赤とした綺麗な内臓も、内臓を引っ張られた時のリアクションも見ることができた。妻の腹を閉じる手術も終わり、母子共に元気である。無事であることに喜びがこみ上げたと共に、我々夫婦独特の安堵感があった。4年前にも妻は帝王切開で子を産んだのだが、その子は横隔膜に穴が空いていた。それはずっとわかっていたことだったが、圧迫された心臓や肺が想定以上に育っておらず、予定されていた穴を塞ぎ内臓を配置する手術を行うこともできずに、14時間程で亡くなった。2664g、49cmの女の子だった。日本でも最先端の研究施設を擁していても、母体から外に出してみないとわからなかったのである。今日生まれた子は明らかな障害が確認できていた訳ではないが、生まれてみるまで何が起こるかわからないというのは、妻と私に深く刻まれた教訓だった。
子を亡くした経験は辛いもので、私も娘の遺体を火葬する為に出生届を出さねばならなかったり、子供と母親の組合せを見かける度に実現しなかった光景を想像したものだが、あのとき妻が感じていた喪失感は、肉体の実感を伴って私以上に彼女を苦しめたことだろう。それでも我々夫婦は「彼女は外の矛盾を知ることなく純粋に愛され、苦しいこともあったろうに我々や周囲の人をずっと幸せにしてくれた。超人的に素晴らしい人だった」と思うことができた。妻でなければそんな風に思うことはできなかっただろう。私はあれほど妻を尊敬し、愛していると思うと共に、彼女の人生に責任を持ちたいと自覚したことはない。それなのに、更に私の親戚が追い打ちをかけた。私の祖母は産婆の経験も豊富で、太平洋戦争中も看護士をしていたのだが、子供に問題があったら母体に原因があることが多いと信じていた。その祖母の言を母がメールをしてきたのだが「祖母はそういうこと言う人だ」と済ませてきた私は、否定しつつも「はいはいわかりました」と返してしまった。それを偶然目にした妻は私への信頼が崩壊し、子を亡くしただけでなく、更に余計な辛さを味わってしまったのである。私は集団の中で影響力が強い人の過ちを放置すると、当人は善意のつもりで途轍もない暴力を振るいかねないことを知った。またどれだけ人格者と言われる人でも、不幸の原因を求める弱さを持っていることも知った。それらの自覚なく伝えてきた母とも大喧嘩をした。問題が顕在化したのである。
妊娠した時点でその子は存在しているわけだが、母体から外に出て生きられるかはわからない。今年になって前の子が先天性疾患を持ったのは、ある遺伝子を持っていたからということがわかったが、それがなぜ発現したのかは専門家が調べても「偶然」以外の答は出なかった。つまりは誰にでも起こり得るということである。私は当時も生きてるだけで満足と思っていたのだが、どうしようもないことは起こるということ、生きているということは当たり前じゃないなあ、奇跡なんだなと改めて強く思ったものである。妻とはそれからも何度も喧嘩もしているが、もう運命共同体と言っていい。性質も考え方も違う二人が、同じ経験を共有しながら生きている。肯定的であれ否定的であれ誰もが夢中になる物語が自分の人生だとして、誰もが離れられず、また我を忘れてその物語を生き、観客としてその物語を見ているわけだが、それらを重ね合わせ、登場人物として互いを認めることは可能だったわけである。
現在の地球に生きているという客観的な事実は共有していても、それをどう解釈するかという主観的な事実は皆異なっている。SNSが明らかにした無意識やこの世界の解釈の差異が示すように、それぞれが生きる自分の歴史のタイムラインが他者のものと同一になることはないし、主観的にはそれぞれ異世界に住んでいると言ってもよい。だがそれらは交差するし重なることもある。内容については人の数だけ主義主張、趣味嗜好があるが、合う合わないは関係なく、基本的には全て尊重されるべきである。何故なら存在しているからだ。「これこそが普通」とか「これだけが正しい」と思いこむことだけが問題である。存在を認め合った結果として多様性がある。衝突は自然に起こるものだが、異質なものを排除しようとする過剰な攻撃性は、否定されなければならないと思う。否定されるべきかどうかは問題の顕在化に応じて(多数決ではなく)人という種としての判断が下される筈だが、その判断が正しいとも限らない。間違えたら滅ぶのであり、それは個人の死とも大して変わらない。だが、ただ黙って不幸や悲劇を野放しにしておくのも愚か過ぎる。
社会的な私と本能的な私の他に、私を動かすものがある。それを私と呼ぶにはあまりに不確かだが、他と共通した仕組から生じるものである。三人称的な主観(これが私である)が他とどれだけ違っていても、一人称的な主観(意識する前の私)には共通する部分があるから、表現の共有もできる。外部刺激を受けリアクションが起こる時、まず生成されるのが自分を動かそうとする私である。意識より前に生じ、意識される頃には引っ込んでしまう。それは間断なく生成されるので、固定的なもののように思ってしまうが、結果としての社会的な私や、肉体に縛られている本能的な私とは違い常に変化していて、言語化を試みるのは面白いことだと思っている。文章を書くことは、雲や水面のスケッチに似ている。変化し続ける捉え所のないものを、一時的に形を成したものとして書き留める。できるだけ意図せず思惑を持たずに美しい、良い、好きと感じる形に留めておきたい。どれだけ三人称的な主観から離れて一人称的な主観に正直に記録できるか。それが普遍性につながっているのだと思う。
宇宙には無限の過去がある可能性が計算ではじき出されたそうだが、宇宙に生じた生そのものは不死である。個体は肉体と共に死ぬが、生そのものは生き続ける。普遍性とは不死性とも言えるのかもしれない。私は個別の生とは別に、生そのものの不死性を気軽に語り合いたい。生まれてきたこの世界の訳のわからなさ、不条理さ、意味の無さ(認識の限界)について考えることは、死や生、哲学や精神の仕組、社会の在り方や政治について考えることとも繋がる。人の一生では足りない無限の欲望は一旦置いて、正義や絶対的な正しさも持ち込まずに、個別に感じ得たものを表現し合う。結局わからなくて構わない。構わないのだということをいつか息子とも共有したい。
4年前に死んだ娘の名前は「好(すみ)」と言い、すーちゃんと呼んでいた。息子の名前は「すー」に呼応し得るもので、まるで呼吸のようである。ある程度自力で生きていけるようになるまでは、彼のことは全て受け入れ育てたいと思うが、この世で最も身近な他人の一人でもある。私とは違った人間として、風通しのよい人になって欲しいと願っている。カジュアルということである。