・他との違い
自分と違っているものを敵とし、同じ目的を持つものだけを味方とする人間のふるまい、在り方に私は強い違和感をもつ。そもそも違いは環境によって生じる。同じ種類の植物が根付いた場所の条件によって異なる成長をするように、環境により個性が出来違っていく。それは動物も同じであり、動く分違いは著しくなっていく。違っているのは結果であり、目的があって違っているのではない。違っているのが当たり前である。違いに差をあてはめて評価したがるのが人間だと思うが、好き嫌いはともかく優劣をつけるのは全く勝手な悪癖である。
違和感の分析自体は良いことだと思っている。自分の気に入らなさにも必ず原因はあり、違うと感じる理由もある。物事を新しく知るきっかけにもなるので、違和感は人を賢くする。ただ違和感は周囲の観察から得られるので、分析を始めると今ここの観察がおろそかになってしまう。違和感を得たら即行動して、分析は後回しにする方が安全の為にもよいと思う。
そうじゃないものがあると、自分がどういうものかわかる。逆に言えば、そうじゃないものがなかったら、自分がどういうものかもわからない。「みんな違ってみんないい」というどこかで聞いたような話があるが「みんな違ってる」ことはいいも悪いもなく事実である。だが違っているおかげで私は私を知ることもできるし、私にとってみんな違っていることは有難いことである。
・前との違い
私は基本的に妻以外の他者と触れ合うことがない。その他外部とのやりとりはほとんどネットだし、最近の出来事もネットで知る。殆ど家の中にいるので分析に時間をかけてしまいがちだが、やはり頭以外の体を伴った気付きの方が、自分にとって重要なことが多い。もっぱら違和感を得る対象は周囲の景色や自分の変化になるが、それはもはや違和感ではなく、一回性の自覚ということになっている。同じことをしているつもりでも、毎回違うということである。
ほぼ毎日公園に野球の球を投げに行く。自己紹介欄にも「壁に球を投げるのが好き」と書いているがあれは比喩ではなく、実際に投げに行っているのである。好きなことに理由は要らないとは思うが、最近は「違うことを確認できるから」かなと思う。公園に野球の球を投げに行くという行為は同じだが、一投ごとに全て違う。そもそも日によって投げに行く公園の違い、時間帯の違いがある。偶々居合わす動物も違うし、天気も気温も湿度も違う。壁に球を投げるという行為自体についても、投げる時の体の姿勢や重心移動、球の握り方や力をこめる部位やタイミング、壁のどこに投げるか狙うかどうかでも違う。地面の状態、私の精神状態でも違うし、同じだったことは一度もない。違いにばかり意識が向き行為は全然上達していかない。違っているだけで満足するからである。
ちなみにこれは球の壁に当たる音の違いで、実際その場での聞こえとも違う
同じことをしてるようで、毎回違うことを確認できると安心する。球を投げることでなくても、あらゆる動きに違いは見いだせるだろうが、呼吸や腹筋運動などでは違いがわかりにくい。壁に球を投げるくらい複雑になると、違いが明らかにわかって面白いのである。多様性と一回性。違っていることのおかげで、私は生きていることに飽きないのだと思う。