俗に「物心がつく」というが人情の理解はさておき、自我や自己が意識されるのが自分の始まりである。同時に自分と分けられた他者も意識されるようになり「自分」という経験が積まれていく。そうしてできた自分・自己保存の意志は、食事や睡眠など本能的なものだけに働くわけではない。社会という群れに自分が含まれていること、そこでの規則や常識などを知るにつれ「群れの中で自分をどう生かすか」も考えるようになっていく。
私の場合は具体的な方策は何も思いつかなかったが「他者と違うことを選んでやれば生きていけそう」と直感的に思っていた。明らかに他者と違う個性を示すことさえできれば、自分の存在を留保されるだろう。禁忌を犯したり他者を傷つけたりしない限り、排斥されることはない筈だ。だから最初は他者と違うことにこだわっていた。
私だけかもしれないが、過去の自分は常にダサい(わかってない、勘違いしている)。参加している社会への不信感や危機感すら最初はなかった。今より更に色々と足りてなかったわけだが違和感だけはあり、群れに紛れようとしてもずっと居心地が悪く、本音と建前の使い分けを知ったり、公の私と自然の私の違いを意識したりしながら精神的な自分の置き場所を探していた。
他者も主観を持ってるらしいという気付きは早くからあり、他者の主観を経験したがったり、何故自分の主観はこの体に限定されてるのかと残念がったりしていたが、そもそも他者が(その他者から見た別の)他者として認識してくれないと自分(私)が存在しないということにはしばらく気付かなかった。刺激へのリアクションにしか自分が立ち上がってこない。もし世界に私しかいなかったら自分は存在し得ない。
また個性とはただ生きているに過ぎないということも、大人になるまで気付かなかった。主観的な経験が他者と完全に一致することは有り得ないので、自然と異なった個性になる。もちろん好きで身についた技能や知識、調整感覚なども個性だし、そちらは仕事に生かしたり、生きることを楽しんだりするのに役立ったりもするだろう。だがそもそも個性とは自然の結果で、固執するようなものではないということは、早めに知っておきたかったと思う。こだわらなくても勝手に違っているのである。
個性とは違う話にもなってくるが、人種、言語、性別、年齢、嗜好、経験など、社会的な属性や個性への固執はダサい。自分が始まって以来、個人が群れや場を作ってきたのだと思っていたのだが、群れの側の必要があって個性が作られていることに思い至った時、アタタ…と思った。群れを存続させる必要であり、多様性を確保する為に個性が自動的に作られてきた。逆に強力な個性ゆえに個人が群れを作ることもあるだろうが、私には興味がない。
人は社会的な生と動物的な生を同時に生きている。概念としての人間と、動物としての人間と言ってもいい。個別でも建前と本音のような公の私と自然の私とがあるが、群れと個という関係においても、群れ即ち人間(とするか生命とするか)は継続する限り基本的に死なないが、個は肉体と共に死ななければならないという、二つの生を同時に生きている。大脳新皮質の発達の結果なのか、なかなか複雑である。
個性への固執がなくなってくると生きるのが楽になる。だがそれは偶々であり、社会は差別や保障の不備などの問題だらけである。更に災害に遭ったりすると容易く死を想像し、群れの継続という意識も出てくる。それは人間として生きる、生命として生きるということであり、よりよい群れの継続を望むということでもある。自然の不条理に向き合う為にも、人が作る不条理は排除しなければならない。
個人の欲望を抑えて人類の未来の為に生きる方がよいというわけではない。意識が生命寄りになったところで、個性へのダサい固執や、自分の偏りを生かした生活を今後も続けていくことに変わりはない。ただ自分の子供も含め限られた人生の中で出会った人達が、自分が死んだ後も楽しく生きて死んでいけるようにしたいということである。それは自分を勝手に作った群れの仕組とは関係なく、意味もなく生まれてきた自分に預けられた人生の中でも、真剣になってよいことという気がしてくるのだ。
国民のことを考えない政治、生存すら危ぶまれる地球環境の変化、現存する問題の中には当事者意識を持たざるを得ないものも多い。何から手をつければいいのか悩んでしまうが問題の大小は関係なく、自分が当事者である問題または当事者に近い問題から動いていけばよいのだと思う。もちろん個人の喜びは求めつつである。問題への関わり方は結局自分の個性によるのだ。それでなるようにしかならないとしても、コンチクショーと思いながらも妙な清々しさはあると思う。