「社会」のような建前や約束事の上に成り立つものには実体がなくても、「世界」は実際に辿り着ける全ての場所であり生物/非生物であるはずである。だが世界を見る目は個人毎に限定されるので、想像でしか捉えられていない部分が大半である。想像で捉えると言えば、思い込みだ。思い込みは脳(ハードウェア)に世界(ネットワーク)を認識させる為の補助プログラムだと私は思っている(それも思い込みかもしれないが)。限られた情報で世界を把握しなければならない脳が、世界の認識できない部分に想像や決めつけが投影された「布」をあてて自己洗脳するプログラムであり、常に無意識(OS)レベルで自動的に走っている。
「布」を剥がすには実情を知るしかないが、一度あてられた「布」を剥がすのはストレスなのでそのままにされることもある。一度そのままにされると、目で追う情報も「布」を補強するものだけになっていく。思い込みは当人にとって真実になり、実感できる世界は狭く単純になるので安心することもあるが、同じ理由で飽きたり絶望したりもする。結果的には世界の認識は「布」だらけのまま、またそのことを自覚できないまま、歪な世界でしか生きられなくなる。これはSNSなどでは常識として話されるような、当たり前の話かもしれない。世界が実際より狭く小さく感じられるようになっていけないのかといえばそんなこともないとは思うが、私は自身の「布」を剥がしまくりたい。そうでないと生きるのがつまらない。実情を知る為には調べるなり人と話すなりして知る努力をするべきだが、出来ない時もある。私は「布」の存在を忘れない方法として「固執しないことに固執する」という作戦をとってきた(作戦というのは後付けだが)。今回はその弊害と対応についてである。
「固執しないことに固執する」とは、端的に言えば自分の外側にあるものに対し「期待しない・決めつけないようにする」ということである。物理法則や化学反応などは別だが、自分に影響を及ぼす出来事に対し自分の常識による評価以前に、出来事の因果関係や意味の断定もせず、ただ影響を受けてその場で「揺れている」意識に集中する。出来事の中でも自分が生きる世界の問題や自分の健康状態には固執するが、それ以外の私に起こったことについて、まずはこだわりなくそのまま受け取るよう努めて「布」を貼る手を止める感じだ。ただ固執しないのはその場だけで、とりあえずは一旦「布」を仮止めして実体を調べにかかる。自分にとってそれが何だったのか、どう受け取るのか決めなければいけない。
一概に言えることではないが、折角意識のスポットが当たった部分をどう受け取るか決まらないまま放置されることもある。調べてもすぐに忘れてしまうことも多い。要はわからなかったとか、自分にとっては大したことではなかったということだろう。勿論それは自分の判断なので、他者に異見を聞くべき出来事もあるだろうが。「布」は完全に剥がせている場所より、仮止めでいつでもめくれる状態で、むしろカーテンを選ぶように時折色や材質などを変えたりしている場所の方が多い。とりあえず「布」の存在は忘れないようにはなっているので、作戦は成功と言っていいだろう。
自分で認識できない部分の内、自分の外部に属する多くについては、剥がせている方だとは思う。想像や決めつけには、こうあって欲しいという願望が含まれている為、自分が好ましく感じる恣意的な因果が入り込んでいる筈であり、基本的にそういう類の物語性は排除して生きてきたつもりである。だが「自ら選択し生きている人生」という意味での物語性まで失っている可能性に気付いたのは、ここ1.2年のことだ。自分が何かをするという経験は「自分が何者なのか」が定まっていないと、ただの行為、情報としてのみ認識される。自分からの評価がつかない。評価をしないまま放置していると、どうでもいいことになってしまい記憶に残らない。その時に応じて何かしら行為をしていながら、自分の物語を生きている実感がないのである。
自分の内部にもある認識出来ない部分とは別に、そもそも自分で作らなければ埋められない闇がある。その一つが「自分が何者なのか」だ。答は自由に決められるが、決めなくても生きてはいける。出来事は起こり続け自分に打ち寄せ続ける以上、自分らしきものは不明だが確かに存在する。打ち寄せる波に乗って移動したり、知らない間に変化していたり、受け身に徹する生き方である。何も求めないので手に入れる喜びはなくなるが、その代わりよほどひどいものごとでなければ何でも楽しめる。期待しないのでひどいものごとが来てもがっかりしなくて済む。私も「固執しないことに固執する」という一見矛盾したような思いを持つ自覚が「個性的である」という自負にまで育ってしまい、それ以上社会的な自分は選択してこなかった。自分の人生の意味、目的を考えようとした途端に「人生に意味はなく、生きているから生きているのであり目的は死ぬまで生きることだ」といった考えが思考の邪魔をするのも、自分の中にある社会性の軽視、社会的に何者であろうとするのか、その決定を避けてきた為かと思われる。選ばない生き方を選んだとも言えるが「偶々生まれて死ぬまで生きました。おしまい」以上の物語にはならないのである。昔は私もそれで結構だった訳だが、楽過ぎて自尊心は全く持てなかった。
格好いい人は、必死だ。必死な人は、尊い。それをしなければならない切実さがあり、一生懸命考えてやるから結果的に必要なことをしているのだと思う。その切実さを最も身近に強く感じさせてくれたのは妻である。元々自分の外側の全方位から敏感に情報を掬い取る繊細さと並外れた想像力があり、心を動かす速度・頻度・強度が誰よりも大きい。本来なら自分の生活だけ頑張ればいい筈なのに、子が生まれてからは猶更、酷いニュースに日々心底苦しんでいて生き辛い。気楽な独身の頃であっても彼女の切実さは表に現れており、その居方は不思議と野性味がある。居酒屋で面と向かった最初の印象は「妊娠したら壁を食べそうな人」だった。信頼できる人という意味であり自分は赤面した。妻は俳優で、他者が書き出した人間として生きて見せることを本当に楽しんでやれる人である。そこに集中できる環境を作りたいと勝手に思う。
①芝居作りや自分たちの生活のことを前向きに悩めるよう、彼女がすぐ絶望しないように助けたい。経済的な面も必要だが、他者への共感の持ち方、考え方など、妻と私の人間性の差は大きい。また二人とも自尊心が低いという共通点はあるのだが、低い理由は全く異なるようだ。その違いに生き辛さに関するヒントがある気がする。これまでもピンチの度に言語化してやりとりしてきたが、これからも異質な彼女との交流を続けたい。理解は必ずしも必要ではない。
②自分や家族に自分をみじめだとかかわいそうだとか思わせない程度にお金を稼ぎたい。その為に社会に関わり、利用出来るということだ。これまで私が何かと気軽に失敗してきたのは、取り返しが付かない失敗に慣れ過ぎいつも弛緩していたからである。生きてるだけで何時も独りで少しウケていて、何度失敗しても懲りなかった。必要な金を稼ぐには、余計な失敗をしている余裕はない。価値観の差を利用し物や人の移動で稼ぐ。ご縁も絡めてその方法を考えていきたい。
③自分も他者もこの世界も完全には理解できないとはいえ、生まれて間もない子供よりは理解しているはずである。それは生活レベルのことや、自分が知る限りの自然法則と人が作る装置のことである。また人の数だけ当たり前は有り、捉え方で変わるということ、何度絶望しても毎回同じのようで差はあるのであり、客観的に自分の周囲にあるものを捉え直し、並べ替えて眺めること。そういったことを教えたい。要は子が一人で考えて生きていけるように育てたい。
上記3点を自分の物語性の根幹に据える。まとまっていないが。
世界を「自分はかなり理解している」「多くの他者より理解している」と信じて人生を思い通りに生きようとしている人とは、自分は違うと思っていた。でも日頃「全ては完全に理解できない」「偶然しか信じない」「生きている理由は生きているからである」とか言っている私も、決めつけているという点では同じだろう。貼る「布」の色が違うだけである。瞬間瞬間で変化し続ける捉えどころのない生物的な自分は、自分でも完全に理解できない。経験からくる偏りという個性、特徴を把握していたとしても、この先実際に何をするのかはわからない。他者をはいわんや、本当に理解することはできない。わからないのは不安でもあるが、常に変わる可能性は有る。それも当たり前だが、人と共有できる当たり前への関心を失わず、固執の仕方も変えつつ自分の物語性を保ち続けることが出来れば、結果的に願いは実現していくと思う。
自然発生的に出来上がる装置が好きだ。意図せぬ結果をもたらす運動が偶然その場に集まり、または欠けることで自発的に起こる。その時はそれでうまく保たれたり、逆に不可逆的な破壊、変化をもたらしたりする。自分という存在をその他多くの自分との集合である社会に置いて、自分という存在があることで社会の中で装置が発生するのは面白い。私は便利屋を営んでいるのだが、客の困りごとを私に出来ることで解決するのが仕事である。その場にある物、必要な人を組み合わせて、問題解決の為の装置が出来れば成功である。不用品回収などもそうだが、基本的にはその時限りでいい。恒常的な装置は専門家や公の機関がやることである。その場その場で装置が完成すれば事足り、総体としては一つの型に嵌る必要がない便利屋であることを気に入っている。仕事である以上意図した結果が求められるが、仕事以外では偶然発生する装置を探したり、自分も組み込まれたりすることを楽しんでいる。
どれだけ自分では気に入らなかろうが、最初から達成や完成を志していないという点は社会的には私の強みでも弱みでもあるのだろう。家族を思い限られた時間に焦りつつも、新たな自然発生的な装置を目指す自分という人間が保持する願い。その実現の方法を模索する一連は、願いを捨てない限り限りなく物語に近くなっていくのではないだろうか。ロマンチック過ぎるが。