金より価値があるもののひとつが時間であり、時間の使い方についての裁量の多寡は、幸福感に直結していると思う。だから宗教の勧誘に会ったら「互いの幸せの為に無駄な時間を使うのをやめましょう」とか、食い下がる人には「あなたは私をどんどん不幸にしていますが、あなたは幸せですか」とか言いたくなる。だが相手にもよるが、あまり言わないと思う。
時間は貴重なので、暇つぶしは贅沢な時間の使い方である。私の価値観では「遊び」>「仕事」で、「無為(自然)」>「社会的意義」である。社会(他者)にとっては意味のないことを、その時の気分で、自分の時間を使ってやる。ただ実際に自分がやることというのは、それが自分にとって何に属するのかは、明確には分けられない。行為中も意識は曖昧だし、どこに注目するかによっても、行為の捉え方が変わってくる。また例えば「勉強」は遊びにも仕事にもあることだし、好きでやっていることが社会的な意義を帯びてきたりすることもあるだろう。
自分の外側との触れ合い方には無数の選択肢があるが、特に他者に影響しようと意識的に働きかける行為は、権力が意識されるので私は基本的にやりたくない。信念も正義も自分だけのもので、押し付けはご法度だ。助けは問題認識が合致していないと行えない。だが、そもそも他者の幸福などどうでもよく、ただ自分が他者にとって特別な存在になることが目的の行為もある。宗教の勧誘である。最終的には入信、喜捨などが目的となるのだろうが、勧誘自体を自分の悦びの為にしている人にとって、冒頭の問いの答は「幸せです」になる。そして「私と話しているあなたは不幸ではなく、むしろ幸福に近づいています。その手助け、契機となることは私にとって幸せです」などと返されるのだろう。話の通じない人は幾らでもいる。
私が一人で川を眺めていると、偶にそういう手合いが話しかけてくる。しかも同じ人が今年通算で4回くらい。自分の時間を好きに使う権利は誰にでもあると思うが、他者を利用して自分が気持ちよくなるだけの暇つぶしには、付き合いきれない。で、さすがに私も「いい加減にしろお前」とキレてしまったのだった。