左側車線の国、皆さんはどれくらい知っているでしょうか?
実は、今自分が滞在しているオーストラリアも左側車線なのですが、まあ特に気にもせず生活していたところ、インド人の友人から「それはオーストラリアがCommonwealthだからだよ」と教えてもらったのがこの記事を書くきっかけとなりました。
左側通行とCommonwealthという二単語がすぐには結びつかず、どうせならちゃんと調べて記事にでもしてみようということでこちらの記事を参考にちょっとbreak downしてみました。
そもそもCommonwealthって?
多分世界史などをしっかりと学んでないと耳慣れない言葉かもしれませんが、Common wealthというのはイギリス連邦と言う意味で、もともとイギリスの植民地だった国々の国家の体制のことを指します。
察しの言い方はもうお気づきかと思いますが、イギリス領とこの車線の左右というのが深く関わってるんですね。
現代の世界の車線事情
ちょっと色が反対で見づらいですが、パッと見てもこの二つに相関がありそうなこたおが分かるかと思います。
実際、左車線の国というのは35%程でそのほとんどが旧イギリス領、つまりCommonwealthなんですね。
が、実を言うと昔はほとんどすべての国が左車線だったんです。今と全く正反対ですね。昔といっても何百年か前のことなので、順を追って説明していきたいと思います。
騎士の時代
中世ヨーロッパにおいてはほとんどすべての人が左側通行でした。というのもこれは人間の利き手に起因しています。
そしてこの時代のヨーロッパは騎士の時代です。
大半の人は右利きで、当然鞘は左腰に装着する。そうすると、馬から降りるのは右からだと鞘が引っかかって不便だし、右側を歩いていたら鞘が人に当たってしまうという単純な理由からです。
荷馬車
この常識を最初に覆すのが荷馬車の出現です。18世紀後半、フランスとアメリカの御者(荷馬車の運転手です)達は大量の作物を数頭の馬に引かせて運ぶという方式を始めました。
この時使用されていた荷馬車というのが何とも不便で、人が座るスペースがなかったので、御者達は一番左の馬に乗る事になったのですね、これは利き手の右手で残り数頭の馬も鞭打たなければならならかったからです。
ということで、この御者達から右側通行という慣習が始まっていきます。
フランス革命
1789年にフランス革命が起きる以前、フランスでもやはり左側通行が基本だったため貴族達は左側を、農民達は右側を歩いていたそうです。
ところが、革命以降、バスティーユ襲撃やその他いくつかの民衆の叛逆などの影響により貴族達も農民たちに混じり右側を歩く様になります。
このフランス革命が右側通行の慣習に大きな影響を与えました。
そして後、パリで公式に右側通行を規定する法が定められたのが1794年になります。
ナポレオン・ボナパルト
あの、ナポレオンです。そう、フランスで流行りだしたこの右側通行主義はこの男によって、さらに広まっていきます。
スイス、ドイツ、ポーランド、スペイン、イタリアと次々とナポレオンに征服された国々がオセロのように左から右へとその法を変えていきました
ここで、ナポレオンに抵抗して左側通行主義を貫いたのが、イギリス、オーストリア=ハンガリー、ポルトガルになります。
そしてヨーロッパにおけるこの右 : 左の対立は第一次大戦まで100年ほど続いていきます。
この辺りで、欧州諸国では右側通行の風潮が強まり、全体として、右側通行がトレンドとなっていましたが、イギリスだけは左側通行を貫きました。
ここから、イギリスは各地に植民地を広げていき、鉄道などその土地の交通網の整備を主導することで、世界各地に左側通行を広めることとなりました。1835年には国内で左側通行を規定する法を正式に定めます。
このことが、冒頭でも触れたように、オーストラリアやインドなどのCommonweealth、つまり旧イギリス領で今でも左側通行が残っている理由になっています。
中には、エジプトの様に入植以前にナポレオンによって征服されていたため、右側通行が残った国もあります。
日本
もちろん日本はCommonwealthではないのですがこれに関してはどうかというと、侍の刀が関係している説など色々ありますが、上記のイギリスの影響というのも理由の一つとなっていて、
1872年、日本において左側通行の法が公式なものになったのですがこの年は日本に初めて鉄道が開通した年でもあるんですね。
そしてこの鉄道、イギリスの手が回っています。
イギリスは技術的、資金的援助をし、さらに建築師長にはイギリス人技師のエドモンド・モレルと言う方が就任しています。
こうして日本も、イギリスから左側通行の遺伝子を少なからず受け継ぐことになるわけですね。
北アメリカ大陸
北アメリカ大陸においても入植後数年はイギリスの法に従い左側通行となっていましたが、独立後は、イギリスの植民地だったという過去を切り離すべく、徐々に右側通行社会へと変わっていきます。この頃のフランスやその他欧州からの移民もその一因になっていると言われています。
その後、他の諸国もその流れに乗り、左側通行の風潮はどんんどん薄れていく事になります。
そして最終的に左側派閥の勢力は衰退の一途を辿り、今に至るわけですね。
最後に
本記事を読んでいただきありがとうございます。
この記事はこちらのサイトを参考にしているので、原文でも是非呼んでみたください。
また、自分は歴史にあまり詳しくないので、歴史とかけ離れたことを言っていたり、原文の訳に誤りがあれば、コメント欄でぜひご指摘ください🙇♂️