人間とは、死へ向かっての存在のことである。
これは、実存主義の哲学者、マルティン・ハイデガーの言葉である。昨晩、朦朧の裡に読んでいた書にその哲学が紹介されており、その「死を想う」ことを称揚した論に感心せられ、備忘録も兼ねて簡易的に(小難しい話は避けて)その一部を記録しておこうと思う。
ハイデガーは人間を「現存在 da sein」すなわち、「彼の存在においてこの存在それ自身が関心の的になって有るもの」として規定する。
ハイデガー曰く、人は自分自身や自分の周囲を気遣い(に関心を向け)、それらが何であるかを自分に対して示そうとし、自分が何でありうるかに向かって不断に自分を投げ入れる(投企する)という仕方で自分と関わる存在である。
また、この自分が何でありうるかという存在可能は「彼に先だって有る」「それ自身を超えて有る」とする。
すなわち、簡単に換言すれば、
人間とは、自分自身や周囲の世界を自分なりに[現在において]理解しようとし、その理解に基づいて、ならば「[未来において]自分がどのような存在になりうるか?」を思い描き、そこに向かって生きていく存在である。
また、そのように生きている時、「[未来において]可能な自分の姿」という[現在の]自分を超えた姿は、自分に先だって[現在]にある。
ということになる。
ハイデガーは死を「最も自己的で、没交渉な」可能性と呼んでいる。
人は誰も他人の死を死ぬことは出来ない。故に、死は自分自身に固有なもの、(各々の存在が)自分にのみ持つことが出来るものである。
つまり、貴方の死は貴方にのみ開かれているのである。
また、先に人間は自らの存在可能に向かって自己を投げ入れる存在であることを述べたが、死というのは追い越しえない、死以降の存在については想定出来ない最終地点である。
謂わば、人は「[未来において]自分がどのような存在になりうるか」を不断に抱いて生きる仕方で自分と関わるが、その「[未来において]自分がどのような存在になりうるか」の最終的な姿が死であり、そこで、
「人間とは、死に向かっての存在のことである。」
が成り立つのである。
このように死は自己に固有のものであり、追い越しえないものであるため、
死に[現在の地点から]向かって生きることこそ、自分自身の生を自らのものとして生きる、実存的な生き方なのである。
ハイデガーは、「不安」に「恐怖」や「心配」とは異なる特権的な地位を与える。
というのも、「恐怖」「心配」は特定の対象を持つが、「不安」にはその事実的対象がないからである。つまり、「~が怖い」「~が心配」という言い方は可能だが、「~が不安」という言い方は出来ない、自然と湧き出でてくる感情だからだ。
したがって、「不安」は世界の何を知らなくとも人間が抱くはずの、先天的に生まれながらに元々備わった感情であり、現存在が何であるかを根源的に示すものであるという。
大概の人間はこの「不安」から逃避して生きる。
ハイデガーはこれを「非本来的な生き方」で、そのように生きることを「頽落」だと言う。
反対に、死を考えることで自然と湧いてくる「不安」に立ち向かい、死に向かって生きることが人間の「本来的な生き方」であると主張する。
ハイデガーの哲学は、自己矜持の為に創り出された恣意的な論理である感は否めないが、
それでも、死を考えている人に「貴方の生き方は本来的であるから、誇りを持って生きなさい!」という力強い説得的な哲学であり、且つそれに確固たる論理の裏付けを与えている。
その哲学は絶望者や自殺志願者の救いとなりえるのではないだろうか。
(※あくまでも私個人の解釈です。)