9月の九州旅行では吉野ケ里遺跡の次に、福岡の柳川へ行った。
その時まで、柳川というところを知らなかった。
鎌倉時代から戦国時代ごろ、蒲池氏(かまちし)が平城を築き、10万9000石の城下町として栄えていたというのが柳川の始まりらしい。
その後、立花宗茂が柳川城を改修しようとしたが、関ケ原の戦いで豊臣秀吉の味方をしたため宗茂は改易(かいえき。このひとは役職をクビにされて、次の人に代わるってことらしい)され、浪人に。次には石田三成をとらえた田中吉政が柳川藩主となり、柳川を整備し、この掘割もそのころ作られたそう。
しかしその後明治5年に柳川城は火事で燃え、柳川にはあまり史跡も残ってないそうだが、掘割や町並みは300年前のままという。
田中家が2代しか続かなかったから、福島県で大名だった立花宗茂が、また復帰。
宗茂は、関ヶ原の戦いで改易した大名で旧領に復帰した唯一の武将です。元和6年(1620)から明治4年(1884)に廃藩置県で藩制度が廃止されるまで、12代にわたって立花氏が柳川藩主を務めました。
参考↓
その、立花家が造った庭園「松濤園」は「柳川藩主立花邸 御花」として、柳川の観光名所の一つ(国の名勝に指定されてる)になっている。
到着したのは夕方。
船着き場に行くと、何人か待っていて、乗り込んだのだが、前にいた女性二人が、自分に、先にどうぞという。彼女たちは、一番後ろに座って写真を撮りたかったようだった。
曇り空なので、色味的にもテンション上がらず。
静かで、派手さもないから、そのままテンションも低く、船頭さんの話を聞いていた。
柳川の名前に似合う、柳の木。
江戸時代の地誌に、柳が多かったと書いてあり、柳川の名前の由来として有力らしい。
かつて使われていた「簗(やな)」という魚を獲る網のついた仕掛けが置いてあった。
簗という字も鎌倉時代後期の史料に、「簗河」という言葉が出ているということで、柳川の地名の起源説その2でもあるそう。
川を下りながら、周りに見えてくるものの説明を聞くのだが、
怖い像が目に入った。
柳川出身の北原白秋が作詞した「まちぼうけの碑」の像ということだった。
幅も高さもないトンネル(っていうのか?)をうまいこと潜り抜けながら進んでいく。
すーーーーっと船がトンネルをくぐるとき、船頭さんもしゃがみ込む。
たまに横の壁に当たることもあるが、がーーん!みたいな感じはなく、こつんごつん、くらい。だいたいすんなり通り抜ける。
建物から直接水路に出れたり、水路際に家があったり。
東南アジアの水路めぐりっぽい。
売店もある。
そこでおやつとか缶ビールとか買える。
水上マーケットのようだ。
これは、立花家の庭園の近くの橋で、ここまでくると、もう終盤。
淡々とした感じが、ますます、アジアっぽいというか。勢いないけど。
水の郷~とかさわやかな気分にはならなかったのは、薄曇り空のせいか?
混んでて、周りに変な派手派手しい店がない方が、むしろ落ち着いていていい感じなはずだが。
非日常的なはずなのに(自分には)、周りの落ち着きや静けさのせいか、非日常的違和感がない。
時代が止まったまま、なわけないのだが、時代の残像があるのかなあ。
昭和初期?文豪とか言われる人たちの活気があったころの雰囲気?
イメージだけど。
これは、「御花」直結船着き場。
琴奨菊って柳川出身なのね。
川を下るだけの記事になってしまったw
読んでくださりありがとうございます。