天正八年
正月。この月は比較的今の地名になじみ深いものが並んでいる。いわゆる信康が舞台から去ったことで、地名を確定して書くことができるようになったか。東堂、北殿、松平與五左衛門尉、喜平などに振舞。十三日に連歌で、発句勘左作とありながら家忠名の句が載っている。家忠以外が作者となっても良いように受けを広げているといえそう。その為か廿二日に月次の連歌として発句が正佐の作でていしゆとして句が載っている。この時点では明らかに正佐の方が作者としてふさわしい扱いになっているといえる。ちなみにこの二つの句は
けふよりも 春もいく世の 宿の松
去年ひらく 梅や久しき 宿の春
と対句のようになっており、家忠が松、正佐が梅を詠っている。これは家忠が松平、正佐が菅原氏系を名乗ることを示唆しているのだろうか。
二月は五日から七日あたりが原本闕失で、その後これまで敬称のついていなかった竹谷松平金左衛門と、こちらは初めて出てくる名だが鵜殿藤助が共に殿つきで出てくる。一方で石川伯耆、平岩七之助という現在にまで名前の残っている人物には殿はついていない。また、おハり御新造様、濱松殿というのも新しい名乗りで、このあたり局面が少し動いたような感じを受ける。廿日には尾州おけはさまという名が出てくる。何でも疑って掛かる私は桶狭間の合戦もなかったのではないかと考えているが、このあたりで桶狭間の合戦があったという話が作られ始めたのかも知れない。廿一日、先ほどは濱松殿で出てきたと思われたが、家康という実名になると敬称はつかなくなる。月末に挿絵あり。
三月、結構いろいろ動きがありそうだが、何があったのかはよくわからない。山鷹、かまた、大坂取出場、中村取出というような新たな地名が出てくるので、また何か新たなことを始めた感じがする。大坂や中村という言葉が出てくることから、秀吉に関わる話で何か仕込みをしたのかも知れない。連歌の発句は正佐。
壬三月。この月はまた振舞が多い。崇福、新左衛門尉、永良一平、崇福寺文師といった人々に松崎伊東殿が来ている間に振舞があり、その後松新二郎の名も出てくる。新二郎は牧野かと思いきや、ここでは松となっている。挿絵二つ。
四月は公事という言葉がいくつか出てくる。出てくる度に名前が変わるので、また何か仕込みをしている感じ。中盤は牧野番の話。
五月頭は何か戦のような動きで慌ただしい。その後雨が続いてそこに挿絵。その後はよくわからない。挿絵がもう一つ。
六月は高天神で戦があった感じ。月初に挿絵二つ。廿七日連歌で発句は勘左。
七月は挿絵多数。八日から十日にかけて中嶋堤つかせ。十一日に連歌で発句正佐。後半は戦があった様子。
八月?は連歌が「ていしゆ名たい正作」という不思議な名乗りで、しかも頭が読めなくなっている。廿三日にも連歌で発句我等作となっている。更に晦日にも連歌があったようだが、発句は記せられていない。鮎取之連歌として鮎の挿絵が付されている。十六日に相州氏政の名が出てくる。
九月。二日に氏眞衆の記載。十五日?に連歌で正佐名義の句。廿四日俳諧で発句は家忠。廿七日にも連歌で発句勘解由。廿八日にも上坂という連歌師の発句での連歌。
十月は月初に挿絵。十日に夢想連歌として、
うへて待 梅は久しき 宿の松
御とあるので御製を夢想した、という不遜な句か。先に挙げた二つの句の続きのような句であるが、宿の松に梅を植えて待つとは、家康の母於大の方が菅原道真の長孫の久松麿から始まるとされる久松氏の俊勝と再婚したことを意味するか。この時期にその話を仕込んでいたと言うことだろう。
霜月は挿絵多数でほとんどが普請の記事。久松氏の話を固めているのだろうか。
十二月にも普請の記事多。信長が様付けで登場する。『信長公記』によれば、この年は三月に北条氏政と同盟し、八月には本願寺が降伏し大坂本願寺戦争が終結したという。それらの動きによって信長の話とリンクさせる準備が整ったということか。
この年位から、段々妄想が、今に伝わる“現実”とつながり始めている感じがする。もっとも『信長公記』もそれ自体信頼性の低い『三河物語』によって「イツハリ多シ」と指摘されている、とのことで、嘘と嘘をうまくつなげてもどうやっても嘘にしかならないのだろうが。嘘を一つ一つ検討し、誰が何のためにその嘘を作ったのか、ということを考えてゆけば、比較的に真実に近いものが浮かび上がってくるのかも知れない。