さて、戦後の後藤田は、内務省に復省したとされる。元々内務省にいたとは思えないのに、これはどういうことだろうか。最初にも書いたとおり、後藤田は「内務省を復活させなければ死ぬに死ねない」と語ったと伝えられている。これは、旧内務官僚に恩を売るために後に語られた話であると考えられ、実際後藤田は後に行政改革に就いて積極的に発言しており、総務省自体は後藤田引退後にできたとは言え、その為にある程度の尽力はしたと言える。それによって戦後の内務省の話を語ることができるようになったのだろう。だから、実際に勤務の実績はなかったと考えられ、残っている話も政治的に利用価値のある話であると考えられる。
実質的に後藤田が表に現われるのは、警察に入ってからで、どの段階からかはわからないが、とにかく同郷とされる海原治が国家地方警察に配属され、それから警察予備隊の設置に関わり、そのまま保安庁に移ったところで、国家地方警察の海原の後の席に座ったと言うことになりそう。海原の軍での最終官職も後藤田と同じ主計大尉であり、軍歴についても海原のものを多少なぞっている可能性がある。そこからは前々回書いたように、二重橋事件とそれに関わる国会答弁で警察庁に立場を築き、警察庁長官官房会計課長として警察力の強化に努めた。このあたり、どういう立場で警察力の強化に臨んだのかを知るためには、本来的には、戦時中の後藤田の本当の姿を復元する必要があるのだが、今のところはそこには届きそうもない。おそらく満州方面にいたのではないかと感じるが、何の証拠もない。尚、海原の防衛論は大変興味深く、ロッキード事件の背景の一つとなってくるが、ここではなく、FXの話まで行くことができればそこで触れたい。ただ、海原に比べれば後藤田の方が遙かにタカ派であり、防衛省での海原の力をそぐために、おそらく岸辺りの意向で警察庁で引き上げられたという可能性もある。岸とのつながりがあったとしたら、やはり戦時中は満州にいたのではないかという疑いが濃くなる。そして岸が絡んでいるとしたら、後藤田警察復帰後の安保闘争などの激化というのは、むしろ海原を牽制するために後藤田がある程度野放しにすることで激化させた可能性もあるのではないか。それによって結果的に佐藤政権を追い詰め、田中政権誕生への道を開いたとも言える。佐藤は国内派であるのに対して、田中は満州へ行ったことになっている。
さて、後藤田は34年3月6日、自治庁長官官房長となったとされる。庁に官房長は必須ではなく、そして自治庁の長官官房長を見ると、後に政治家となった面々が並んでおり、政治家希望者のための席だと言ってよいだろう。前々任の金丸三郎が官房長の後に税務局長となっていること、そして後藤田を引き上げたとされる小林與三次が当時自治庁税務局長だったことからも、少なくとも税務局長よりは下に当たる役職だったようだ。同年10月13日に金丸三郎の後任としてその税務局長となり、地方自治税制に携わった。このとき固定資産税の課税標準を収益還元価格から売買価格に改めているが、これが土地バブルの制度的原因となったと言える。つまり、課税標準が売買価格になれば、自治体は地価が上がれば上がるほど税収が増えることになり、地価の上昇に強いインセンティブがつくようになるからだ。また、料飲税の導入にあたって政治献金が多く流れたようで、法案提出が年度が替わってからの4月4日になったことが問題となった。利権政治家後藤田の原点はこの自治庁時代にあると言えそうだ。
後藤田は、37年5月8日に警察庁に復帰し長官官房長、翌38年8月2日に警備局長となった。会計課長から審議官、部長を飛び越えて局長になるというのは大出世であり、その為の自治庁での国会答弁を含む職への出向のようなものだったと言えそうだ。そんな警備局長の時にライシャワー事件がおきたという事で、普通ならば十分に責任問題であるが、なぜか警視庁警備部警護課創設につながるということになり、その政治力を遺憾なく発揮し、その後も40年3月12日に警務局長、同年5月19日警察庁次長、44年8月12日警察庁長官ととんとん拍子に出世していった。これは、田中角栄の出世とほぼ軌を一にしている。長官時代には、よど号ハイジャック事件・瀬戸内シージャック事件・三島事件・三里塚闘争(成田空港予定地の代執行)・あさま山荘事件・山岳ベース事件・西山事件・テルアビブ空港乱射事件など、大事件が頻発した。これらが本当にたまたまその時期に集中して起こったのか、それとも後藤田が長官となったことへの反応だったのかは、今となっては何とも言えない。いずれにしても、これらの事件は警視庁や都道府県警レベルでは処理しきれないものばかりで、警察庁の権限拡大につながったことは間違いない。
実際後藤田はかなり政治的な不手際もしている。46年9月の第1次坂下門乱入事件のときには、佐藤栄作総理大臣から事前に直々に警備強化の指示を受けていたにもかかわらず、中核派系の沖縄青年らによる皇居闖入を防止できなかったのだ。これは天皇のヨーロッパ歴訪2日前の出来事で、返還を控えた沖縄出身の犯人ということも含め、責任をとらせることもできないことを見越した上での不作為による闖入事件であるといわざるを得ず、明らかに佐藤に対して政治的ダメージをもたらす為に行われたものであろう。これは二度に亘るニクソンショックの後で政治は大混乱している時に起こったものであり、そして通産大臣田中は、糸で縄を買う、とも言われた日米繊維交渉の真っ最中だった。これも、既に返還が決まっていた沖縄問題にミソを付けるために田中がばらまきパフォーマンスをしたものであり、佐藤下ろしの共謀であったと言ってよいだろう。
この後、田中の総裁選出馬の直前に警察庁長官を辞め、田中総理発足と同時に内閣官房副長官となるが、ここから先はロッキード事件に直接関わる政治の話となるので、また別に書くことにする。
参考
これらのことは、本来はもっとたくさんの文献を読んで書くべきなのだろうが、それを一つ一つ当たっていたらいつまで経ってもロッキード自体が片付かないので、とりあえずはWikipedia情報でさらっと流れを確認するに止めた。Wikipediaの情報の視点に固定されていることは断っておきたい。
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