補遺1
全編読んで著者の推定までしたところで、特に最初の方については見方が変わってきたところが多く出てきたので、補遺としてまとめたい。
まずは解題から。
まず、天正五年(一五七七)十月十七日という日であるが、このちょうど1週間前10月10日に大和信貴山城が陥落し、松永久秀が自害したとされている。始まり方の半端さから考えて、それ以前からも書かれていた物が、その事件をきっかけに残せないこととなってそれ以前を破棄した可能性は十分に考え得るのだろう。
としたが、この陥落に際して息子とされる久通も討死したとされる。この久通、永禄八年五月十九日の永禄の変で三好義継らとともに足利義輝を襲撃して殺害したとされるが、その時は義久という名前だったという。義久と言えば尼子義久が思い浮かび、永禄九年に月山富田城が陥落して以来、安芸円明寺に幽閉されたとして、しばらく消息が絶える。この月山富田城は、永禄の変直前の4月から毛利軍に包囲されていたとされ、そうなると尼子義久は明らかに永禄の変とは関わらないことになる。しかしながら、この余りに符合したタイミングから、このあたりが全体としてアリバイ工作として後から作られた話であり、実際には永禄の変以降松永久秀として描かれている人物は尼子義久であったのかもしれない。松も永も『家忠日記』で効果的に使われている字であり、松永久秀という人物自体『家忠日記』から派生して後に造形された可能性もある。
そして、久通という人物に近い時期に生まれた人物として、中院通勝の13歳年上の兄通総という人物がいたとされ、通総と言えば来島通総という来島村上氏の人物が思い浮かぶ。その父は村上通康とされ、出自はわからないながら、伊予の河野通直の娘婿となり、村上水軍を興したとされる。村上通康は永正十六年生まれで、中院通勝の父通為と数えで二つ違いとなる。同じ通がつき、又中院家は村上源氏であることから、村上通康は中院家の出身である可能性がある。
さて、伊予の河野氏だが、通直以前は内紛が続いていたとされ、その影は非常に薄い。その前に名をなしていたのは、鎌倉時代末期、元寇に参戦して活躍したとされる河野通有で、『蒙古襲来絵詞』にも出てくる。ただし、この中では「かはのゝ六らうみちあり」と記している他、 河野通忠を「かハのゝ八郎」、河野通信を「みちのぶ乃かはのゝ四郎」と記している(Wikipediaより)。ということで、「かわの」と呼ばれていたことになる。仮名書きで「みちあり」、「みちのぶ」となっているのが、本当に通であったかはわからない。それは、藤原道長と頼通が本当に父子なのか、と言うことにもつながるような話であり、もしかしたら、元々道であった「かわの」氏の通字を通に替えることで村上源氏が乗っ取りを謀ったのかも知れない。ただし、平家物語延慶本の応永年間の写本では既に通信と記されているので、その写本の時期が正しければ室町期には既に通の字になっていたことになる。いずれにしても、河野氏はその後伊予では大名としては断絶したのに対して、来島氏は大名となり、通の通字を保って豊後森藩主として幕末まで続くことになる。つまり、伊予の「かわの」氏を中院家とみられる村上源氏の来島氏が乗っ取り、一方でその中院家が『平家物語』や『承久記』にも出てくる河野の姓を使って、東国に稲葉氏や林氏といった通の通字を持つ氏族を広げたのではないか。なお、『蒙古襲来絵詞』は、江戸時代には細川幽斎から始まる熊本藩が預かっていたという。
随分回り道となったが、信貴山城の戦いで籠城したのは、実は尼子義久とこの戦いで攻城側として活躍したとされ九ヶ月後の上月城の戦いで捕らわれて殺害されたという山中鹿之介幸盛だったのではないか。家忠の名に関わる花山院流の青山氏支流は幸の通字を持っており、それがこの山中幸盛から来ているとしたら、どこかにその接点があるはずで、そう考えると書き始めに関わる信貴山城の戦いがそうだったというのは十分に考えられる。そうすると、信貴山城の戦い自体が『家忠日記』の内容に従って後に作られたものである可能性もあり、そこで松永久秀という人物が作られたのではないか。なお、信貴山城の戦いの重要史料である『多門院日記』は、なぜか江戸時代中期の写本しか残っておらず、また『兼見卿記』の著者吉田兼見は三河に吉田という名前を付けようと企てた張本人であると考えられ、別の筋から松永久秀という人物を造形していた可能性がある。又兼見のおばに細川幽斎の父とされる三淵晴員の妻がおり、結局後に細川幽斎を通じて松永久秀の話と『家忠日記』の内容がリンクしてくるようになるのだろう。あるいは最初から吉田兼見が全ての筋書きを書いていたのかも知れない。そして、細川幽斎は中院通勝と同一人物、そうでなくとも少なくとも密接な関係を持っており、その関係で松永久通という人物が尼子義久の替りとして作られ、それが中院通総を通じて来島通総、その父通康とつながり、さらにそれが斎藤道三や織田信長の美濃時代と深く関わる稲葉良通につながっていくのだろう。このあたり、藤原兼通、頼通、教通、師通、そして源通親から村上源氏中院流という、荘園の私領化と深く関わる通の流れが連綿としてあり、その延長線上で捉える必要があるだろう。
終わりの部分についてももう少し考察したいが、本文の振り返りを全てした後にしたい。