さて、6人の政治家をまとめたところで、本来ならばコーチャンの思惑に行くべきなのだが、ちょっと手元にコーチャン回顧録がないので、それが手に入るまでもう少し別の話をしたい。
前に、内務省についてまとめたいと言って止めておいたので、それを書いておきたい。内務省について焦点となるのは、敗戦によって軍が解散し、朝鮮戦争の勃発によって再軍備が話題となった時、軍の復活ではなく、元は内務省管轄であった警察から警察予備隊を作る、と言うこととなり、それが飛行機の調達問題と深く関わってくるためである。これは、日本最大の軍事力が、元内務省管轄であった警察組織から派生するという形式をとったことを意味する。内務省自体は戦後にGHQににらまれ、警察庁、自治庁、建設省、行政管理庁などに分割された。
ロッキード事件に関わる部分では、内務省は大久保利通によって作られた省であると言うことで、その孫だとされる大久保利春という存在が浮かび上がってくる。利春自身は内務省とは何の関係もなく、ずっと純粋に民間に務めていた。大久保利通と内務省の関係とは、実際にはどんなものだったのであろうか。
内務省は、初代内務卿を務めた大久保利通が、主としてフランスの内務初の制度を参考に作り上げたものだといわれ、特に特徴的なのは、警察を管轄していると言うことだった。これに関しては、軍事力を各藩の延長であると言える地方が持つのか、それとも中央政権が一括して持つのか、という事で、警察制度の創設時からかなり長い間議論があったようだ。元々明治元年に東京の治安維持のために各藩から藩兵を出させ、それが薩摩藩主体の取締組、邏卒となり、司法省警保寮に移管されるといった具合にめまぐるしく管轄が替わった。そして明治6年に内務省ができ、翌明治7年1月9日、司法省警保寮が内務省に移管された上15日、首都警保のために内務省管轄の東京警視庁が鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の川路利良が初代大警視(後の警視総監)に任じられた。そして太政官特達により日本初の行政警察規則である「東京警視庁職制並びに事務章程」が制定され、それにより国事犯については全て警視庁の長に執行権限が与えられることとなった。つまり、日本全国どこの犯罪でも、国事犯については東京の自治体警察である警視庁が執行を行うことができるようになったのだ。これが、士族の不平に火を付けることになる。つまり、法の執行権限が東京に集約されることが、これによって定まったことに対する不満だ。このように、元々内務省とは、警察権力を中央に集中することを目的に作られた省庁であると言ってよい。これは、フランスの制度に範をとったものであり、川路利良、大久保利通、そして当時フランスに留学していた西園寺公望が主導したものであったと考えられる。このうち、川路、大久保は、不平士族から憎悪の対象となったとされており、この警察権力の集権化というのがいかに不満の対象であったかがよくわかる。そして、川路、大久保は薩摩藩士とされるが、どちらも旧幕時代には旗本として知られている家柄であり、おそらく不平士族からの不満をできるだけ押さえるために、江戸藩邸詰め薩摩藩士という説明にしたのではないかと考えられる。もしかしたら、西鄕についてもその疑いがあるかもしれない。いずれにしても、新政府の軍事力はほとんど薩摩依存であり、それをいかにして新政府に移管するのか、というのが、長州、あるいは長州派の公家の一つの中心テーマであったと言える。明治維新は薩長によってなされたとされるが、軍事力から見た実態としては、薩摩が中心となって行ったもののおいしいところを長州が持っていった、というべきものであろう。そしてそれに対する不満が西南戦争という形で具現化したのであり、そして川路の警視庁からその征討軍に参加することで、薩摩の軍事力は完全に新政府に吸収されたのだと言える。
西南戦争から4年後の明治14年1月14日に警視庁が再設置され、それと同日に憲兵条例によって憲兵が設置される。この流れは、政治情勢を読み解かないと理解できない。まず、当時の内務卿は山田顕義、一方陸軍卿は大山巌で、参謀本部長を山県有朋が務めていた。警視庁再設置に至るまでの流れを見てみると、まず、西南戦争の時に、士族反乱に対処する為に東京警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警視本署へと改編されている。つまり、最強の治安維持力を持った東京の地方治安維持組織である東京警視庁を、中央官庁である内務省の直轄にした上で、西南戦争に参戦させたのだ。警視庁の権限拡大が士族の反乱につながったことを考えると、内務省に法の執行実力機関をおくのは良くないという判断が働いたのだと考えられる。そこで、陸軍に憲兵を設置することで、民間の治安維持的なことと法執行実力機関を切り離すことにしたのではないかと考えられる。それが、憲兵設置のタイミングにあわせて内務省管轄の警視庁が再設置され、警備掛を廃止して憲兵部を設置したという。憲兵条例はおそらく陸軍が出したものであるが、それと同時に警視庁に憲兵部ができるとはどういうことなのか。これは、陸軍が憲兵条例を出したのと同日に警視庁を地方管轄にすることで、憲兵の管轄が、東京府なのか、内務省なのか、陸軍なのかわかりにくくする、内務省、特に時の内務卿山田顕義の企みなのではないかと考えられる。その名が元々警兵となる予定だったのが、陸軍省条例の中で既に使われていた憲兵という言葉に代わったとも伝わるが、実際には内務省側で警兵を作るという企みは通らなかったのではないか。これは、あるいは明治十四年の政変などに絡んでくることかも知れない。それは、憲法を英国式立憲君主制とするか、プロシア式君権主義とするかの争いであったとされるが、実際には英国式慣習法かフランス式実定法かの争いで、山田顕義はフランス式を主導していた。そして、大久保や西園寺が警察・内務省のモデルとしたフランスでは、憲兵は軍ではなく内務省管轄であり、それに倣おうとしたと考えられる。しかし、フランス式というのは表に出ていないことからも、様々なところで混乱の元となっていたようだ。この憲兵問題もその一つであり、内務省で、などという話はおそらく表には出ておらず、山田らが勝手に進めていた話であろうと思われる。実際には、憲兵設立の際、警視庁は、警察官から憲兵への転出人事を行い、また内務省の旧警視局から転出して憲兵になることが予定された警察官は西南戦争の際に動員された835人で、それは東京憲兵隊の定員の半分以上を占めていた。つまり、旧警視局局員の再就職のために憲兵の話を道具として使った可能性もある。いずれにしても、憲兵設置のその日に、旧警視局所管の兵器が全て陸軍省に納付されている。また、東京府は巡査の定員を半減させ、これによって警視庁として東京に集中的に集まっていた執行力の強い軍事力を伴う部分が、警視庁どころか内務省の手からも離れ、陸軍に統合されることとなった。なお、明治44年には、陸軍の憲兵とは別に、警視庁に特別高等警察が設置されている。
さて、内務省の話から少しそれてしまったが、実際のところ、明治初期、内閣制度が確立するまでの内務省というのは、実質的には警察に関することのみだったと言える。明治18年に内閣制度が導入され、山県有朋が初代内務大臣となることで、内務省が実体として成立した。山県は地方自治制度の整備に熱心に取り組み、地方自治制度の原型はほぼ山県一人によってできあがったと言ってもよいほどだろう。それは非常にできが良かったので、内務省が官僚制度の中心であると見られるようになったのは、山県の功によるものだと言ってよい。また、陸軍もほぼ山県と大山巌によって作られたと言ってよく、明治政府というのは、伊藤博文でも、もちろん大久保利通でもなく、山県有朋によって成り立っていたと言ってよいのだと私は考える。その山県が大正11年に没すると、翌年に関東大震災がおき、そこから一気に混乱の昭和へとなだれ込んでいったのも、当然と言えば当然だったのかも知れない。山県の評価が低いのは、内務省という実力官庁を大久保利通が作ったものだとする話の流れでそうなっているのであって、実際には大久保などは何もしていないと言ってよいのだろう。
山県が亡くなると、実力官庁内務省を何とか支配のために利用しようという企みが始まる。昭和2年の田中義一内閣で、内務省の混乱が始まっている。最初の内務大臣鈴木喜三郎が3.15事件などを起こし、人事問題や選挙干渉で責任をとって内務大臣を辞め、その後田中義一が首相と兼任したことになっているが、これは最初から田中義一がやったことではないかと思われる。もうその頃には特高ができているので、特高が独自に首相からの指示を受けてうごいたのではないだろうか。その後、昭和12年には国民精神総動員運動が始まり、翌年には国家総動員法、昭和15年には大政翼賛会が発足し、地方長官が地域社会の組織化の中心的役割を果たすようになり、内務省が国家統制の中心となっていった。
大変おおざっぱな流れであるが、これが内務省の成立から戦争に至るまでの道のりであった。内務省が警察から始まったというところを押さえないと、戦後の再軍備が警察予備隊から始まるという流れが見えてこず、そして内務省の実質的な姿は地方自治であったということが見えないと、旧内務官僚の評価というものが等身大でできなくなり、戦後史がわからなくなる。また、この、警察や、内務省をいかにして権力志向の強い勢力が手元に治めようとしてきたか、という事を見ないと、ロッキード事件の裏に流れる、防衛問題や政治と金と言ったような、権力と深く結びついた流れがどのように動いているのかが見えてこない。
直接ロッキード事件からは少し離れてしまったが、この流れを押さえておくことが、ロッキード事件の本質を見極めるのに非常に重要ではないかと感じたので、まとめてみた。
参考
Wikipedia 関連ページ