古事記にもっと踏み込んで妄想を飛ばしたいところだが、それではあまりに飛躍が大きすぎるので、もう少し状況証拠を積み重ねてゆきたい。
日本最古の物語として、竹取物語が知られている。これは、竹の中から出てきた女の子が美しく成長し、5人の貴公子と帝の求婚を葛藤を持ちながら断り続け、最後に月に帰ってゆくというロマンティックファンタジーである。その5人の貴公子のうち3人までが実名で日本書紀に出てくることもあり、史実との深い関係が想定されている。その舞台は、日本書紀の登場人物が出てくることを考えると、飛鳥時代末期、白鳳時代、そして藤原京の時代にかけてのどこかであると思われる。つまり、これは日本書紀には採録されなかった旧辞にあたるものの一部である可能性がある。日本書紀では、古事記の記述が終わるあたりから旧辞が記述されなくなっているので、古事記がそのまま記録されていたら、竹取物語が旧辞として取り上げられていた可能性もあるのでは、と考えられるのだ。
では、その竹取物語の実際の歴史とのかかわりを考察したい。まず、原本の成立は、「源氏物語」絵合の巻にある「竹取の翁の物語」が「物語の出来はじめの祖」とされていることから、平安時代物語文学の始祖という扱いを受けているが、現存本に関しては内容や文章から見て9世紀後半から10世紀前半の成立とみられる(1)とされる。現存本に関しての最古の写本は元亀元年(1570)の奥書を持つ里村紹巴の自筆本だが、これとは別系統の古本系と呼ばれる系統は、書写年代こそ江戸期になってからのものだが、奥書や内容からより古い形態を残しているといわれる(2)。つまり、内容自体は旧辞にあたるものだったとしても、文章としてまとめられたのはかなり遅れてからであり、さらに史実との関連があるにしても、竹取物語自体に異本があるということで、その記述をそのまま史実だと考えることにも無理がある。これらのことから、日本書紀、竹取物語、そして地域に残る伝承は、どれもある程度後世の影響を受けているものであると言え、それらをバランスよく考えて、実像に近い姿を探ってゆく努力が求められるといえる。
さて、この時代には都は一定ではなく、竹取物語の実際の舞台がどこなのか、ということについては確定が難しい。ここではそれを考慮に入れて、東三河地域に広く残る伝承と比較することによって、この地域と竹取物語との関連性を実証してみたい。東三河地域には、日本書紀最後の天皇である持統天皇と、続日本紀最初の天皇である文武天皇についての伝承が広く残っており、どうもこれらの伝承が竹取物語と深く関わっている様なのだ。続日本紀には日本(書)紀と古事記編纂の記録が残っており、両書成立に深く関わると考えられる二人の天皇に関わる伝承が東三河地域に多く残るということの意味はよく考える必要がある。
令和元年10月31日追記
ここから先、竹取物語に出てくる車持皇子と大伴御行の話と東三河地域の関わり、そしてそのほかの竹取物語と関わりそうな東三河の伝承について書いてありますが、だらだら書いているとかえって興味が失せてしまうのではないかと思いますので、有料とします。有料部分は2500字弱です。ご興味を持たれた方だけお読みください。以下に結論だけは書いておきます。
このように東三河には二人の貴公子にまつわる話に加え、竹取物語にかかわる数多くの伝承がある。その上、先に書いたとおり、竹取物語の時期の都の場所は確定しておらず、ふし山が都の近くであったという表現も考えると、竹取物語では下条の星野宮を都としている可能性も十分にありうる。つまり、竹取物語は東三河が舞台だったというのは、それほど突飛な考えではなさそうだ。
令和元年11月1日
やはり有料取りやめました。以下は大変細かい内容なので、読みたい方だけ読んでください。
では実際に竹取物語の話を追ってゆくと、5人の貴公子のうち二人の話が東三河地方に関係が深いと気づく。まず、2番目の車持皇子の話であるが、彼が玉の枝を取りに出かけたのが蓬莱山であり、字は違えども新城市の鳳来寺山と同じ音である。そこに伝わる伝承によると、開山である利修仙人がある時小用を足し、その草を女鹿が食べて人間の女の子を生み、仙人が都に上る時にその子を籠に入れて連れてゆき、名家の門前に置いてくると、そこで立派に成長し天皇に召されて皇后となる、とされる。そしてそれを裏付けるかのように、鳳来寺山門の額は光明皇后によるものだと伝わっている(3)。この話は、結果は違えども竹取物語の合わせ鏡のような話であり、しかもそれが鳳来寺という名の寺に残っているということは無視できない。また、皇子が蓬莱山に向かう途中で出会う鬼や天女の話は、東三河地域に多く残っている。鬼に関しては、豊橋の飽海神戸神明社での鬼祭で天狗と鬼のからかいが行われるなど複数の鬼が登場し、一方奥三河地方では花祭という夜を徹して鬼が舞う神事が広範囲に行われている(4)。天女に関しては、豊川三明寺の宮殿に祀られている弁才天は天女の化身であり(5)、行明(羽衣の松)(5)や下条(市杵島姫社)(6)といった豊川両岸にも天女の伝承が伝わっている。
ついで4人目の貴公子である大伴御行についての話がある。彼は、龍の首の玉を取りに出かけたのだが、海でひどい嵐に遇い、遭難して、目がスモモのようになったと記述されている。これと似た話が、奇しくも先の車持皇子と車の字を共有する豊橋植田の車神社に伝わっており、社記によると貴人がうつろ船に乗ってこの地に上陸したとされ、そこで食料を付近の村人に乞うたが、それを断られた貴人らは餓死し、その霊を慰めるために大盛の飯を食べる「おしいばち」という行事が始まったとされる(7)。伝承によると、貴人は6人で、海手の賊を退治するための航海中に暴風雨に見舞われ十数日の漂流後植田の浜についたといい、その時の様子が衣類は破れ、髪の毛もひげもぼうぼうで、落ち込んだ目だけがぎらぎら光っているという状態だったという(8)。この表現は竹取物語の御行の様子とそっくりである。これに関連して、植田の南西にある老津には、文武天皇の皇子武兒親王が、慶雲3年勅勘を蒙り臣の長日子出日子と共に都を後にして三河に下り、伊勢路から海路高師の浜大津の岸に着き、この時大津村の七兵衛が案内し、それによって伴を名字にするようになったと伝わる(6)。大伴氏は後に伴氏と姓を改めていることも併せ、興味深い伝承である。また、龍という字は、天龍川に見られるように三遠地方に縁が深く、そこには龍のつく寺が数多くあり、また豊川が二匹の龍が吐いた水滴から始まったという伝承も砥鹿神社縁起(9)に残っている。
この様に、竹取物語の全てとは言わないまでも、少なくとも五人のうち二人の話が東三河の伝承と大きくシンクロしていることは注目すべきだろう。
その他にも東三河地域には竹取物語に関わる伝承が多くある。竹取の翁がかぐや姫を見つけたのちに豊かになり働かなくなったことを、月からの使者にとがめられ、かぐや姫を連れて帰る口実にされるという話は、弁才天を祀る豊川三明寺の馬方弁天の話と類似性がある。三明寺の前を唄を歌いながら通う馬方の前に美しい女性が現れ、その唄のお礼にと財布をくれ、その後唄を歌うと財布の中のお金が使っても使っても減らなくなったが、その後馬方が怠けて働かなくなり、お金の秘密を仲間にばらすと、財布が空っぽになってしまった、という伝承だ(5)。
月からの使者が持参した薬壺と天の羽衣に関してもみてみたい。まず、薬壺は薬師信仰とのかかわりがあり、薬師瑠璃光如来ともいわれる薬師如来は、左手に薬壺を持ち右手は手のひらを上に向け指を上げた姿が特徴的な仏像として具現化されている。瑠璃光如来に関しては、先に出た車持皇子が蓬莱山で遇った天女は「ほうかんるり」と名乗っている。薬師信仰に関しては、東三河地方には二つの著名な医王寺があり、医王の名のごとく薬師信仰とかかわりが深い。それは、豊川の篠束と新城の長篠という、奇しくもどちらも竹の仲間の篠がつく地名となっている。なお、篠と同じく竹の仲間である笹については、東三河各地に笹踊りという笹の名を冠した踊りが多く伝わっている。さらに、豊橋の賀茂に薬師如来が本尊である医王山本願寺があり、鳳来寺、林光寺、普門寺などにも薬師信仰、薬師如来が残っている。一方、天の羽衣に関しては、行明の羽衣の松の話とつながる。かつて星野の里と呼ばれたところに若者が通りがかったとき、水辺で芳香が漂っているので、見上げると松の木に羽衣がかかっており、そばで天女が水浴びをしていたのを見つけ、彼が羽衣を隠して家に持ち帰ると、その夜美しい女が訪ねてきて一緒に暮らすようになり、男の子が誕生した。のちに、隠してあった羽衣を見せると、女はそれを身に着け天女となって空に登り、男の子は成長して弓の名人となった(5)、という話である。天女になって空に登るという部分は、月に戻ってゆくかぐや姫の話とそっくりである。
竹取物語において、最後に帝が薬と文を燃やしたふし山についてだが、奇妙なことに都も近く、と述べられている。当然のことながら、畿内から富士山を目視するのは難しく、西から富士山をはっきりと肉眼で見ることができるのは、ほぼ東三河地域からである。そしてそこには、先に羽衣の松で出てきた通り文武天皇が行幸されたと伝わる星野宮の伝承がある。石巻神社ではそれが下条にあったと伝わり、その下条には、天王、堀之内、竹之内、広間、王前、王西、王手洗、大屋敷、中屋敷、木戸口、太子、御所ヶ池、大山塚などの地名が残り、星野宮自体は東下条の藤ヶ池村にあったと伝わる。このうち中屋敷は行在所があったところ、太子塚は文武天皇の息子である竹内王子を葬ったところ、御所ヶ池は王子に殉死した12人の后が身を投げたところという(6)。12といえば、先の薬師信仰と関連して、薬師如来を守護するとされる十二神将も連想される。
参考文献
1. 国史大辞典編集委員会. 国史大辞典9. 東京 : 吉川弘文堂, 1988.
2. 上原作和. 絶望の言説-限界の竹取学、文献学と物語世界の臨界線. 『竹取物語』への招待. (オンライン) 1998年9月18日. (引用日: 2018年10月5日.) http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/taketori-9809.htm.
3. 鳳来町教育委員会. 鳳来町誌 鳳来寺山編. 豊橋市 : 愛知県南設楽郡鳳来町, 2006.
4. 東三高校日本史研究会. 東三河の歴史. 豊橋 : 三宝堂印刷所, 1983.
5. 豊川市教育委員会. 新版豊川の歴史散歩. 豊橋 : 豊川市, 2013.
6. 愛知県八名郡役所. 八名郡誌. 新城 : 愛知県八名郡役所, 1926.
7. 豊橋市校区社会教育連絡協議会. 続 ふるさと豊橋. 豊橋 : 豊橋市校区社会教育連絡協議会, 1980.
8. 豊橋と民話を語り継ぐ会. 片身のスズキ. 豊橋 : 豊橋と民話を語り継ぐ会, 2006.
9. 三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起.