天正11年
正月五日に大きな文字で國替とある。とは言っても、その後に國替があった様子もなく、これは正月の目標的な物だったのか。十三日には勘左名の発句で連歌。壬正月は、東堂、孫左衛門、崇ふくし、一平、文師、などに振舞。廿九日には鯉を十五本捕ったようだ。二月、酒左、如雪に振舞。三月十七日酒井小五郎の所へ穴山殿娘が越して、廿五日に祝言。廿八日夢想連歌「あふミなる 五十四郡の 手につけて」。四月廿四日発句似僧の連歌。廿五日越前芝田播磨羽柴筑前近江にて去廿一日に合戦。先のあふミというのはこの戦への予感か。五月三日連歌で正佐の句。小田三七殿尾張うつミにて腹御切候。六月、信長の甲州入りの時に美濃に移った善光寺如来が甲斐善光寺に戻ったようだが、なぜか途中で吉田を通っている様子。もしかしたら諏訪を吉田としようとしていたのかも知れない。
七月、家康の娘と氏直の縁組みの話。この月は大雨があったようだ。八月井伊兵部少輔殿の名が初めて出てくる。九月には長尊の句が三つ、勘左の句が一つ出てくる。六日には郡中知行かた三介殿より被仰越候とのこと。知行を三介殿(一般的には織田信雄か)から与えられたとのことになるのか。十月。十日に伊勢物語の大書。戸田三郎右衛門殿、松紀伊守、牧野新二郎らに振舞。長久保普請のために興国寺まで行く。十六日形原紀伊守死去。廿五日長池にて鯉十本。霜月二日鯉六十本、鮒五百枚。廿日小田三介殿上にて腹めされ候風説候、廿二日三介殿御事せつにて候。十二月九日発句長尊で連歌。
天正十二年
一月十三日連歌発句長尊。廿五日連歌、家忠名の句。二月二日長尊に伊勢物語聞候。廿八日に正佐上より被下候とのことで、正佐は上方の人物なのか。連歌師なのだろうか。
三月三日三川、遠州徳政入候とのこと。武田攻めの戦費を三河と遠州に負担させ、ほとぼりが冷めた頃に徳政で踏み倒したということだろうか。あるいはその三日後に信雄が家臣を処断していることから、三河側の領主が尾張の高利貸しに対して返済の必要なし、とし、それが信雄家臣の内部の勢力争いにいたり、処断された、ということか。とにかく、この徳政、そして信雄の家臣処断によって小牧・長久手の合戦につながってゆく。先に三介殿と書かれていたが、ここでは信雄となっている。三月十四日、津の小田上野介殿敵ニ被成候、と敬称付き敬語で書かれていることから、『家忠日記』の筆者は心情的に小田という氏族に近いものであったと考えられる。十九日羽柴という名が出てくる、その後も羽柴となっているだけなので、本当に秀吉なのかはわからない。また、秀吉についての同時代記録『天正記』には、この小牧・長久手の戦いは一切出てこない。秀吉は、その頃紀州方面が慌ただしく、美濃まで出てきたかどうかは怪しむべき理由があるが、『家忠日記』からだけではそこまでは何とも言えないが、廿八日に羽柴小牧原へ押出候とあることからも、この羽柴は秀次であると考える方が自然なのでは、とも思われる。四月九日池田勝入父子、森武蔵など討取り。五月一日羽柴退散、三日信雄河内ヘ御帰城候、と敬語が使われている。河内というのがどこのことかわからないが、信長の時代には河内は佐久間信盛の両国で、その息子信栄は信雄に仕えていたとされる。同じ信の字を持っていると言うことで、実は信雄と信栄は同一人物で、佐久間信盛死後(追放後?)に河内周辺を治めていたという可能性はないだろうか?つまり、信雄が家康と組んで秀吉と戦ったという構図自体違っている可能性があるのかもしれない。ただ、河内はその前に川内として出てきており、美濃周辺だったと考えた方が良いのかも知れない。個人的には、この戦いは、何度か出てきた小田氏が長島一向一揆の残存勢力と共に兵を挙げ、それを秀吉といわゆる家康が平定した、と言う感じではないか、と思っているが、確証はない。このあたり、戦国時代末期のなるべく正確な姿を再建するためには、究明される必要がありそう。六月十九日には九鬼と戦ったことが書かれているので、敵に九鬼がいたことがわかる。九鬼が信雄方ではなく、秀吉方で、しかも羽柴退散後にも抵抗していたというのはどうも考えにくい。廿一日になって筑前は馬を近江まで入れたという。
七月から合戦が終わる十一月まで干支が一つづれている。ここで信雄と家康の関係性について工作をしていた可能性がありそう。実際、その後八月十六日に羽柴濃州まで出馬候由候となるまで動きはほとんど無い。九月廿三日に信雄から羽柴の動向について注進が入る。霜月十一日に御無事の沙汰が入り、翌日十二日付の記事が二つ出て、それで干支が元に戻る。十二月十四日には信雄様の表記。廿五日佐々蔵助が越中から濱松に来て、吉良の信雄様に会っている様子。濱松と吉良が同日に出てくると言うことが不可思議。『家忠日記』においては、濱松とは今の西尾ではないか、と感じられることがたびたびある。そして信雄様、となったと言うことは、戦の結果、三河の支配権は信雄になったと言うことを意味するのではないか。