全日空は、グラマン決定の直前、河野金昇が没したのと同じ33年3月に、名鉄を大株主として迎えているとされ、あるいは全日空が出来た時から株主であったという話もある。正確なところは調べれば何とかなるのかも知れないが、今のところそこまで資源を割く余裕がないので、ここから先は完全に想像で、何の根拠も無いことであると先に記しておきたい。いくつも説が出ていると言うことは、その時期を特定されると何かやましいことが出てくるのではないかと勘ぐってしまう。では、いったいその名鉄と全日空がどのようにつながってくるのかを考えてみたい。
まず、名鉄についてみてみると、グラマン決定のその月3月16日に、現在名鉄本線上にある庄内川橋梁が掛け替えられたとされる。それと同じ名の庄内川橋梁というのが名鉄小牧線にもあったとされ、昭和6年の完成とされている。このあたり、名鉄による大幅な記録の改竄があるのではないかと疑われる。というのは、まず、名鉄には本線以外にも岐阜につながる犬山線から各務原線を経由した路線があり、犬山から木曽川を渡って各務原線に接続するのだが、その橋が作られたのが大正14年11月で、翌15年10月から鉄道の運行が始まっている。橋の所有は名古屋電気鉄道(後の名古屋鉄道)であったが、木曽川は大河であり、独力では建設できなかったようで、「道路と鉄道との共用」「愛知県・岐阜県・名古屋鉄道の三者により架設」「この三者が費用を分担すること」が合意され、建設されたといい、つい最近の平成12年に下流に道路橋が開通するまでは、道路と鉄道の共用となっていた。つまり、名古屋電気鉄道の投資余力というのは、当時それくらいしかなかったということが言える。そこに、4年後に美濃電気軌道を買収した上で、翌年これもそれなりの川である庄内川に小牧線の橋を架け、更に4年後に単独で木曽川橋梁をかけるというのは全く現実的な話ではない。このあたり、東海地方の鉄道路線の歴史全体についての大幅な歴史改竄であると考えられるので、ここで深く触れることはしないが、要点をいえば、その木曽川橋梁が出来たというのが昭和10年、則ち1935年とされるが、実際には昭和35年、則ち1960年に、前年におきた伊勢湾台風の復興補助金を使って建設されたものではないかと疑われる。
その想定の下で、その名鉄の全日空株取得について考えてみたい。まず、本来的には当たるべき資料には当たるべきなのだが、実は国会図書館のEngelという同図書館所蔵の各社の営業報告書のデータベースを調べてみても、全日本空輸の営業報告書は昭和45年からしか見当たらず、その前はなぜか昭和27年から43年まで日本ヘリコプター輸送の名で営業報告書が所蔵されている。つまり、公式書類で合併、あるいは名称変更時期がいつなのか、というのは、現物を見ればわかるかも知れないが、少なくとも現在流布されている、31年、あるいは32年に合併して全日空となった、という話とはどうも違うらしい、ということがある。私の想像では、株取得は昭和31年から35年位にかけてのことなのではないかと考えている。極東航空と日ヘリが合併して全日空となったとも言われる31年には、名古屋を拠点とする中部日本新聞社が「東京中日新聞」の発行を始めて、東京に進出している。そして、これはまた勝手な推測なのだが、名鉄の小牧線が1931年に開通とされているのだが、これも実は昭和31年のことなのではないかと考えており、それによって小牧空港に鉄道でいけるようになったと考えると、その年に全日空の株を取得し、小牧空港への便を良くしたと考えられるのではないか。小牧線の方は想像であるが、少なくとも中部日本新聞社が東京に進出するほど羽振りが良かった時期であり、名古屋周辺に何らかの特需が訪れた可能性がある。それは、F86のノックダウン、ライセンス、そして国産生産が名古屋にある新三菱重工で始まり、その継続が期待される一方で、さらに次世代であるFXのライセンス生産契約を持ってくるための、様々な利益誘導工作が行われたように感じられるのだ。
そのあたりに関わりそうなことを考えてみると、当時の名鉄の副社長で、後に長く社長と会長を務めることになる土川元夫は一宮出身で、河野金昇の地盤と重なっている。そして小牧の少し奥の春日井には陸軍工廠があった為か、当時名鉄は、一宮から小牧につながる路線を走らせていたようで、名鉄にとっても小牧を発展させる必要があり、それで飛行場を中心にという事で、全日空に目を付けたのかも知れない。ただ、全日空と関わりが深いとされる富士製鐵の永野(護)重雄が名古屋に工場建設計画を始めたのが昭和32年だとされ、名鉄の全日空株の取得はその時期と重なるのかも知れない。この時期は新三菱重工でF-86Fの国産化生産が始まる時期であり、どの製鉄会社を誘致するかは名古屋側に選択権があったと思われ、その中の条件として、名鉄による全日空株取得につながるような何らかの条項が含まれていた可能性がある。なお、永野重雄の弟護は第2次岸内閣で鉄道航空行政を担当する運輸大臣を務めている。このあたりは、おそらく名古屋財界としても一枚岩ではなく、元々は、小牧のそばに陸軍工廠があったという事で、飛行機もそこで作れば一番手間がかからない。もしかしたら、F86のノックダウン生産などはそこで行われていた可能性もある。そこで、名鉄主導で小牧周辺に新三菱の飛行機生産、そして空港をセットで作るという構想が持ち上がり、それに対して永野、美土路路線が富士製鐵の工場を沿海部に作り、そして新三菱の工場も大江に、そして空港は元の名古屋国際仮飛行場があったとされる第十号地、今の潮凪埠頭に、という構想で対抗したのではないか。このあたり、選挙区事情以上に、歴史的文脈というのが大きな意味を持つが、それについてはまたどこかで戻ってきた時に触れるかも知れない。
そして、34年に伊勢湾台風が発生する。これによって沿岸部にあった飛行場は完全に使用不能になったのではないか。人的被害で阪神大震災が起きるまでは最多の自然災害であったとされるこの台風は、被害額の対GDP比で首都圏を破壊し尽くした関東大震災に匹敵するとされる。いくら何でもそれは少し盛りすぎなのでは、という気がし、その中にはこの飛行場の被害なども含まれていたのではないか、と考えられる。このときはまだ災害対策基本法も激甚災害法も出来ておらず、復興予算はどんぶり勘定のようなものだったのではないかと考えられる。そして、飛行場復興の代わりに小牧空港の整備であるとか、そこへのアクセス確保のための鉄道網整備などに予算がかなり割かれたのではないか。その中で、陸空一体化運輸か何かの名目で名鉄による全日空の株式取得への道が開かれたのかも知れない。
いくつか可能性はあるが、とにかく昭和30年代前半というのが、名鉄と全日空が急接近した時期ではないだろうか。
参考
「田中角栄の昭和」 保阪正康 朝日新書
Wikipedia 関連ページ
令和3年7月27日
一部訂正、追加しました。(太字部分)