さて、中央においては、聖武天皇が仏教による鎮護国家実現の一環として、この八幡神への傾斜を強めてゆく。天平13年(741)閏三月甲戊、聖武天皇は「八幡神宮」をたたえ、三重塔や仏典、封戸・位田などを奉賽する。これが続日本紀における八幡神宮の初見となる。なお、それが仏教を含めた宗教政策の一環であったことは、神宮に対して仏典を奉納し三重塔を建立させたことから明らかであり、それはその1か月前に国分寺・国分尼寺建立の詔が出たこととも軌を一にしている。ただ、ここでいう八幡神宮がどこなのか、ということはまた議論になりそうだ。例えば、三河の八幡宮のすぐそばには国府とともに国分寺・国分尼寺が存在し、それはほぼ一体として考えることができる。そしてこの八幡宮は白鳳年間の創建であるという伝承を持ち、さらに言えば三河一宮の砥鹿神社の縁起には、国分寺は三河から始まったという記述がある。つまり、国分寺、国府、そして八幡宮という三つがそろっている三河は、もともと八幡宮があり、そのそばに国分寺と国府を作ったということになり、その意味で続日本紀でいうところの八幡神宮の本命の一つだといえる。長屋王の推進した官田の増加方針から考えても、国府、国分寺に付随してそこに封戸・位田を置き、それによって国庫収入の安定を図るという政策は非常に合理的に思え、少なくとも中央の意図としてはそれがあったと考えられそうで、そういう役割として三河の八幡宮が想定されていた可能性がありそう。
その中央の政治情勢は非常に混沌としており、藤原四兄弟が相次いで没した後、南家武智麻呂の息子仲麻呂が急激に出世を遂げ、それと軌を一にして聖武天皇の東国行幸、恭仁京への遷都などがおこなわれ、先の国分寺造立の詔もこの恭仁京において出されている。それを考えると、ますます八幡神宮は東国にあった可能性が高くなる。また、この恭仁京への遷都を理由にして広嗣の乱に連座したものへの大赦がおこなわれており、ここからも広嗣の乱の中央におけるとらえ方というものが垣間見られる。天平15年(743)には大仏造立の詔が出される。これも非常に微妙なタイミングであり、聖武天皇は7月に仲麻呂もつれて紫香楽宮に行幸しており、その間に甲賀の税体系を畿内と揃え、そして盧舎那仏造立の詔が出るのだ。この紫香楽行幸に橘諸兄らほかの首脳が同行していないことを見ると、これは仲麻呂を外して恭仁京への遷都を固めるためのものと考えることができそう。では、何のための仲麻呂外しか、ということになるが、同年の5月に仲麻呂は参議に進み、その直後に民部卿として管轄していたと考えられる田地に関して墾田永代私有令が発布されている。つまり、開拓田地の無制限私有化に道を開き、良田百万町歩開墾計画を完全に頓挫させるような法令を、半ば独断ともいえる形で発布したといえるのだ。これに対して諸兄らはより東国に軸を移して政治の主導権を取り戻そうとし、それに対して翌16年正月の難波宮行幸という仲麻呂側の巻き返しがあったと考えるべきだろう。そしてこの難波宮行幸中に安積親王が急死するという大事件が発生する。有力な皇嗣候補者でもあった親王は、大伴家持とも親交があり、万葉集にそのつながりを示す歌が残されていることを記しておきたい。そんなことがあったためか、翌17年5月には平城京に都を戻している。