では、竹取物語に出てくる人物について考えてみたい。まず、竹取翁であるが、さかき、さぬき、あるいはさるきのみやつこと、3種類の表記がなされている(http://taketori.koiyk.com/taketorikenkyu.html)。さかきとさぬきで議論が為されることが多いが、私は古本系に見られるというさるきという表現を重視したい。さるきというのは「さる紀」のみやつこで、ある紀の国造ということではないかと考える。これはおそらく光仁天皇の母が紀氏の出身であるということと関わっているのではないだろうか。つまり、文武天皇の妃選びの話を光仁天皇の即位正当化のために利用するために竹取物語が使われた、ということを指し示しているのではないかと考えられる。
では、五人の貴公子を見てゆきたい。一人目は石作皇子である。新撰姓氏録によると、丹比氏と石作氏は同じ先祖を持つということで、この皇子は多治比真人であると想定されている。彼は文武期に臣下最高位の左大臣を務めており、最初に出てくるのも不自然ではない。宣化天皇の四世孫とされ、宣化天皇は古事記で建小広国押楯命とされ、タケの天皇であることも注目したい。そこから皇子とつけられているのだろう。彼は天竺にあるという「仏の御石の鉢」を持ってくるように言われ、大和国十市郡の山寺で見つけた鉢を持って行ったが、かぐや姫に見破られ、「恥を捨つ」という言葉の語源になったという。多治比氏の根拠地とされる河内国丹比郡には土師郷が含まれるので、これに関わると思われる。
二人目の車持皇子は、母が車持氏であるということから、藤原不比等であるとの説がある。不比等は天智天皇の落胤であるとの話が「公卿補任」や「大鏡」に載っており、竹取物語が書かれた頃には、不比等を皇子として表記するのは自然だったのかもしれない。彼は、東方海上にあるという「蓬莱の玉の枝」を取ってくるように言われ、偽物を作って献上し、「たまさかる」という言葉の元になったという。この話については、東三河に残る伝承が元になっていると思われるので、その解釈は前の記事を参照していただければ、と思う。五人の貴公子の中では内容が最も長く、そして詳細にわたるということで、この話が竹取物語の主たる話であったと考えることができそう。「たまさかる」というのは悪い解釈がされていることが多いが、「たまさかなる」の字義通り、たまたま見つけることができた、というまさに冒険譚を賞賛する言葉であったと考えた方が自然だろう。その冒険譚がとても詳細にわたっているのに、偽物が出てくるということの方が不自然であり、これは工匠の方が車持皇子を陥れようとした話だと捉えるべきではないだろうか。