阿倍氏というのは阿曇部のこと、つまり南方からやってきた海人の一族の可能性もあり、その場合阿曇比羅夫と阿倍比羅夫は同一人物かもしれない。阿曇比羅夫は信州安曇野の穂高神社に祀られており、そこは三河国渥美郡から諏訪を通って北陸、比羅夫が大活躍した越国に抜けるルート上にある。さらに、少し下った奈良時代には、正史にはないとはいえ阿倍仲麻呂と言う人物が遣唐使として唐に派遣され、そこで科挙に合格し、安南節度使として6年間ハノイに在任したと言われている。現地在任と言うことは、現地の言葉に通じていたと考えられ、だから阿倍氏はインドシナ方面の出身なのではないかと考えられる。
一方で、阿部姓というのは東北地方に多く、そしてアイヌ語のアペという言葉は「火」を意味するのだという。これは火鼠の皮衣に通じる話であり、また東北ではのちの前九年の役で安倍氏が朝廷に反旗を翻すなど強力な勢力であったと考えられる。
つまり、中央では阿曇族に連なる人々を阿倍氏とした一方で、阿曇・阿倍比羅夫が東北で火の扱いに長けた人々を協力者として麾下に加え、それによって阿倍氏(様々な字形があるが)が成立したといえそうだ。阿の字が仏教とつながりが深いのに対して、安の字は女性が家の中に落ち着く様を示し安らかさを表すので、渡来系では阿の字、在来系では安の字が好まれたのかもしれない。阿倍仲麻呂の話は、実は正史では全く確認が出来ないため、朝衛という役職についたモデルとなった人物はいただろうが、それが阿倍氏であったか、そして仲麻呂という名であったかというのは非常に疑わしい。もしかしたら、阿曇・阿倍比羅夫の活躍にあやかるために阿倍仲麻呂という人物を作り出して、それによって東北勢力をてなづけようとしたという可能性もある。いずれにしても、こしの国に越という漢字が当てられたのは、この阿倍比羅夫と仲麻呂に関わってのことだろう。
また、饗部(あえぶ)はアイヌ語の食べ物を意味するアエプに通じ、職を司る役割として饗部が阿倍氏になったという可能性もある。
様々な由来が考えられる阿倍氏であるが、インドシナ方面から仏教を伝えたという可能性を考えるとして、仏教伝来の話に阿倍氏は全く関わっていないというのは気になる。阿倍氏が活躍するのは阿倍比羅夫から平安初期くらいに限られており、蝦夷征伐が終わったあたりで中央からはほぼその名を消してしまう。一方でまさにその時期に阿倍仲麻呂が唐で大活躍しているという不自然さがある。やはり主体となっていたのは東北の人々で、その都における窓口のような形で中央の阿倍氏が成立したということかもしれない。
少しまとまりがなくなってしまったが、阿倍氏についてはこれくらいにしておきたい。