では本文に入ってゆきたい。前回書いたとおり、天正五年の十月から始まっている。
まずは、場所がどこかはわからないのだが、替之番として西鄕孫九郎へ(と?)替り、あい番が戸田孫六郎左衛門尉だという所から始まる。十四日に懸川という地名が出て、十七日から3日間続けてうつら(鶉)つきに出ている。鶉つきが一体何かはよくわからないが、鶉の飼育は今川家と縁の深い『言継卿記』に出てくるという。また、鶉の狩りは万葉集の大伴家持の長歌で詠われているという(たのしい万葉集)。それは、安積親王が薨じた時に詠われた歌の一つで、安積親王とは時期が異なるが、似た字である麻績王が『万葉集』巻第一で伊勢国の伊良虜の島に流されたとされている。島ではないが、三河の渥美半島の先端は伊良湖岬と呼ばれている。そして現在豊橋市は鶉の大産地となっており、この記述が何らかの形で関わっている可能性がある。
廿日には武田勝頼が小山今城から大井川を越えてきて引いていったとの記述がある。小山今城がどこかはわからないが、今城については、『日本書紀』において斉明天皇が孫に当たる建王(たけるのみこ。中大兄皇子と遠智娘との子)が8歳でなくなった時に、今城の谷の上に殯を建てたとされている。
今城なる小丘が上に雲だにも著くし立たば何か嘆かむ
という斉明天皇の歌が『日本書紀』に収められている。(やまとうた)
廿一日には懸川から濱松まで國衆が帰陣しているという。勝頼が来そうだという話があるからわざわざ懸川まで出向いているはずなのに、その前にのんきに3日間も鶉つきを行い、勝頼も何をしに大河である大井川をわざわざ渡ってすぐに引き上げているのかわからず、そしてその翌日にすぐに濱松まで帰る、というのは余りに異常な光景であり、これは明らかに過去の文脈をこの日記の始まりに組み込むために書かれたことであると考えて良いだろう。
最初に出てきた西鄕、戸田というのは松平氏、牧野氏と共に寛正6年(1465年)にあったとされる額田郡一揆の平定側として名前が挙がってくる。額田郡一揆は『今川記』に書かれており、そこに吉良氏之内部対立に絡んで一揆が起きたことが記されている。『今川記』は斎藤道斎著で天文 22 (1553) 年成立とされるが、写本は文化元年のものしか残っておらず、そして額田郡一揆を裏付ける重要な証拠となる蜷川親元の『親元日記』のその一揆についての部分は、文政2年(1819年)に起稿され、天保12年(1841年)に完成した『朝野旧聞裒藁』に始めて採録され、それ以前には一切記されていないとのこと(岡崎市史)。そして、額田郡一揆と呼ばれるものは観応元年にも起きており、それは南北朝、特に観応の擾乱に関わる重要な一揆であったと考えられる。その記憶を混乱させるために、別の額田郡一揆を作り出し、それをごり押しするための元本となったのがこの『家忠日記』であった可能性があるのではないか。
同じく廿一日に信康が岡崎へ来たとあり、翌廿二日濱松普請と家康が馬伏塚から濱松に帰陣との記事。岡崎の地名についてはまた後から考察する。馬伏塚というのは、一文字違うが、今の豊橋にある吉田城は馬見塚の岡に建てられたと伝わる。今はその点を指摘するだけに止めておく。いずれにしても、武田勝頼侵入の前にはさんざんゆったりし、その侵入の二日後から濱松にとんぼ返りしてその普請を行うというのはこれまた考えにくい。そして廿五日にはまた敵が大井川筋にまわってきたという。思うに、この普請というのが、この日記を書いてゆくための話の筋を整えた、ということを意味しているのではないだろうか。つまり、これによって、家康が岡崎から濱松に移ってきた、という話の大筋を整えた、と言うことになるのではないか。
月が明けて霜月は、水野藤二から飛脚が来たと言うことから始まる。そして、鷹野という地名と、上村出羽守が死んだという話が出る。上に書いたように、これも仕込みの一環であったとしたら、鷹野というのは高野山につながる一方で、今の豊橋には小鷹野という地名が存在する。そして出羽守というのは『牛窪記』において牧野保成が名乗っていた名乗りとされ、その後柳沢吉保や水野忠成といった異例の出世を遂げた人物がこの名乗りを用いている。上村というのは、ここまでつなげるのがふさわしいのかはわからないが、現代になって東三河地方を選挙区とする愛知5区から10期に亘って衆議院議員を務め、環境庁長官にまでなった上村千一郎という代議士がいる。
八日になって吉田酒井左衛門尉という名が出てくる。酒井左衛門尉とは吉田城主を長く務めた酒井忠次のことだとされるが、もしかしたらここでの仕込みからできてきた話なのかも知れない。そして、前回書いたように、家忠は上総国で上総酒井氏と関わりがあると考えられる。つまり、酒井忠次の実在性を含めて疑問を生じさせる設定がここでなされている可能性があるのだと言えそう。
続いて「ながら」と読ませる字として永良と長池というのが出てくる。「ながら」というのは、藤原基経の父とされる藤原長良に始まり、このあたりの地名の始まりも調べる必要があるのだろうが、美濃に長良川という川があったり、また奈良の御所には長柄神社と書いて「ながらじんじゃ」と読む神社があり、美濃のあたりには鎌倉氏につながるとされ長柄の読みにも通じるる長江氏がいたとされ、また三河の設楽郡にも長江という地名がある。そして思い出したいのが、家忠というのは鵜殿長持の娘婿であり、鵜殿氏は長の通字を持っていると言うことだ。
同十日には白なわを引かせ鯉を三十三本捕ったとある。『日本書紀』第七巻には、景行天皇が美濃(岐阜)に行幸した時、美女を見そめて求婚したが、彼女が恥じて隠れてしまったため、鯉を池に放して彼女が鯉を見に出てくるのを待った、という説話が出てくるとのことで、古い話を引っ張ってきたらそれに釣られて33の話ができた、という事であろうか。これは、まだ『信長公記』が書かれるよりも前の話であり、ここで出てきた話をもとにして、『天正記』、『信長公記』、『大かうさまくんきのうち』といった信長や秀吉に関わる書が書かれた可能性がある。このあたり、『家忠日記』の真の作者についてなどを含め、後に再検討したい。
ここまで書かれて、十一日に初めて深溝という地名が出てくる。これだけ広い受けの中で、どこを深溝にするのか、ということは日記の作者次第であるという状況を作り出したのだ。さらに、十四日には緒河という地名が現われ、これによって緒河水野氏という、家康の母方の実家が整えられたと考えられそう。
その後、會下という地名が出てくるが、これについてはよくわからない。これが出てくる直前に原本闕失があるということで、何かを仕組んだがうまくいかずに消してしまった可能性がある。そして、原本闕失があるということは、その部分は本人の筆であるにしても後から書き直したということを明らかにしているといえる。
廿七日には江湖僧への振る舞いがあったという。江湖とは琵琶湖と考えて良いのだろうか。そうならば、近江と深いつながりがあったという事になる。これは作者推定の一つの決め手となるものだといえそう。晦日には酒井忠次と共に徳川四天王にも数えられる榊原の姓が、七郎右衛門という名で出てくる。
月が明けて十二月十日には再び江湖という言葉が出てくる。このあたり、京都の岡崎、吉田、そして琵琶湖の地理的関係性と、三河の岡崎、吉田、浜名湖の関係性を頭に入れ、そして濱松に家康がいるという状態で、江湖という曖昧な表現をしていることに注目したい。つまり、三遠地方の話を京都近江の話に置き換えて話のすり替えを行っていた可能性があるということが言えそうだ。当時琵琶湖畔の長浜には羽柴秀吉が入っていたと言うことも含めて、どういう話の広がりかたをしていたかを想像すべき所だろう。となると、深溝という地名も、深い溝と言うことで、運河のある近江八幡あたりをイメージしていた可能性もありそう。
十三日には五井松平太郎左衛門という名が出てくる。五井松平は深溝松平の本家筋に当たる家となる。それが西郡にいたと言うことで、鵜殿氏との関わりを作っているのだといえそう。どちらがいつから確認できるのかを含め、ここで作られている話もいろいろありそう。
廿七日には竹谷松平備後守、そして廿九日には吉田に借銭との記事がある。竹谷というのは豊橋多米に滝ノ谷という地名があり、そこには得合長者という徳川という姓の元になったのではとも考えられる長者の伝説が残っている。また、吉田というのは三河と京都の両方にあることは既に述べたとおりで、そして三河の方は元は今橋と言ったとされ、吉田ではなかった。そういった微妙な名前に対して貸借関係の記録を残すことで、そこの話をいつの間にか盗ってしまう道具にした可能性がある。
このように、天正五年の記事はほとんどが仕込みで成り立っていると考えられ、そして原本闕失があることから後から書き換えがなされたこともあきらかで、そこから何らかの事実を導き出すのは難しそう。ただ、それでも残したということで、作者にとっては消してはならない重要な前提が記されていると考えるべきだろう。この部分は、作者にとって欠かすことのできない舞台設定を行った部分だと考えて良いのだろう。