補遺2
天正六年
五月には、平岩七之助、水野藤二殿、鵜殿八郎三郎、松平伊豆守、幸春大夫、松平太郎左衛門尉殿、鹿之助、家門様という名前が出てきて、二日間原文闕失となる。仕込みが済んで少しずつ動きだしているということか。突然美作などと言う地名が出てきて鹿之助につながると言うことで、山中鹿之介につながることだろうか。そうなると、筆者は尼子氏、ひいては佐々木氏とつながるという可能性が出てくる。
七月七日に上方山岡半左衛門尉の使いの話があり、はりまかんきの城上介殿様御せめ候とある。これは時期的には上月城の戦いと近く、だとすると城上介とは鹿之助のことか。殿様御せめ候というのは、攻めた毛利軍がこの著者の主筋であることを示すものであろうか。あるいは尼子氏が主であったとしたら上月城の戦い自体の構図が何か違うものであった可能性もある。これは信長や秀吉との関係性を見る上で非常に重要な記述となりそう。
これは、正確には、「上方山岡半左衛門尉使被帰候、はりまかんきの城上介殿様御せめ候て、瀧川美濃三人衆明知五郎左衛門せめられ候、此方衆手負多候、瀧川殿も手負ハれ候、」となる。はりまかんきの城は、播磨の神吉城であると考えられ、ちょうどその頃秀吉軍が別所方についた城主神吉頼定を攻めて、落城させたことになっている。これは、上月城の合戦と完全に同期しており、同じ戦を二通りの書き方で記している可能性がありそう。もしかしたら山中鹿之介は信貴山城の戦いで死んでおり、後からそれを松永久秀に置き換えるために、神吉城の戦に合わせて上月城の合戦を作り出したのかも知れない。五月の記事と考え合わせると、信貴山城の戦いと尼子義久を切り離すために山中鹿之介という人物を作り出し、それが生きていると言うことで尼子氏が攻め手側に居たのだ、という印象操作を行ったのかも知れない。尼子氏は大内氏、毛利氏、あるいは出雲大社も絡んで複雑な歴史になっているので、簡単には読み解けそうにない。そして、このわかりにくい尼子氏が宇田源氏佐々木氏流を名乗ったことで、そのわかりにくさから佐々木六角氏が『大日本史』編さんなどで大きな存在感を示し、又佐々木氏の最初期に使われた綱の字が家綱以降非常に大きな力を持つことにつながってゆくのではないか。なお、七月廿九日には送りニ山中罷越候とあり、この段階では『家忠日記』においては、まだ山中鹿之介は死んだことになっていなかった可能性もある。
十月には甲斐武田氏との関係が緊迫しているように書かれているが、事実なのか作り話なのかよくわからない。11月に入っても引き続き遠州に侵入した武田勝頼のことが書かれている。七日には荒木信濃が信長に敵対したとして、初めて信長という名が敬称なしで現われる。月末には武田勝頼は引き上げる。
考えてみると、甲斐武田氏の話が出てきたのも、この『家忠日記』が大きなきっかけとなっているのかも知れない。少なくとも『家忠日記』の中では、武田で出てくるのは勝頼であり、信の通字を持つ人物は出てこない。それによって、勝頼などという人物はいない、と言う議論が起こり、そこで『平家物語』まで遡って信義の信の字が通字として定められ、そこにつながるように信の通字を持つ甲斐武田氏の話が段々作られていったのではないか。つまり、最初から甲斐武田氏なる存在はなく、『家忠日記』以降に作られたのでは、と言う疑いがある、と言うことだ。では何のためにそのようなことをしたか、と言うことであるが、それは、『古事記』の写本と関わるのではないかと考えられる。最古の写本とされる真福寺本は、応安4年(1371)に上巻、翌年(1372)に下巻を書写したものとされるが、真福寺が名古屋大須に移転したのが慶長17年(1612年)で、そして『家忠日記』の内容から西側の勢力の東国進出が小田原落城以降のことだとすると、東国入りした時に入手した古文書が真福寺に納められたのではないかと考えられる。
その『古事記』においてかなり重要な問題として描かれているのが『国譲り』の話であり、それは、大国主神が攻めてきた建御雷之男神に対して、息子の八重事代主神と建御名方神が良いと言えば国を譲るとし、八重事代主神は早々と降参したのに対して、建御名方神は建御雷之男神と力比べをした末に、州羽の海まで逃げていき、それによって大国主も国譲りに同意した、というものだ。これに対して、『日本書紀』の中ではタケミナカタという神は出てこず、武甕槌神と経津主神が大己貴神から国を譲り受けたことになる。これに関して、諏訪神話を記した『諏訪信重解状』においては、守屋大臣と明神が争ったという話が出てくる。これは、宝治3年(1249年)に鎌倉幕府に提出されたとされるが、その年代はともかくとして、ここに信の通字が出てくる事は注目しておきたい。
そして、『古事記』ではタケに建の字が充てられているのに対して、『日本書紀』では多くに武の字が充てられている。そして、武田はこの武の字に由来していると考えられる。そうなると、『古事記』よりも『日本書紀』に共感を覚える人々が武田神話を支持し、その構築に力を尽くしたと考えられる。では、『古事記』の何がそこまで反発を呼んだのだろうか。それはまさに、『古事記』では負けて州羽に逃げたはずの建御名方神が、諏訪においては明神として攻めてきて先住の守矢神と戦った、と言うことになっているからであると考えられる。この諏訪神話は、諏訪信重の人物名で残されているもので、奥書にある宝治年間よりも下るだろうと言われているようだ。つまり、時期はわからないが、いずれにしてもバックデートで神話を書き直している、という事になる。それはなぜ書き直したか、と言うことだが、南北朝期辺りから戦乱の中で小笠原氏などに代表される諏訪に攻め込む勢力があり、それが諏訪に浸透した頃に、鎌倉時代の年号でそれ以前に明神(建御名方神?)が攻め込んできたのだ、と言う神話を出すことによって、自分たちが諏訪に対して働いた暴虐を明神(建御名方神)の責任にすり替えたのではないかと疑われる。そしてそれを裏付けるかのように、『古事記』において負けた建御名方神が州羽の海に逃げた、と言う記述が出てきて、話がつながることになったのでは。そして、もしかしたらその州羽の海というのは、写本段階で書き加えられたものかも知れない。このあたり、写本の正確な整理が必要になるので、確定的には言えないが、国譲りの神話の重要性を考えると、可能性としては考えられるのでは。そして、その建御名方神がどこから来たのか、と言うことで、おそらく建御名方神というのは南伝仏教伝来についての話ではないかと私は考えているが、それが争いの中で消え去ってしまい、仏教は聖徳太子に代表されるように、西から北伝の大乗仏教が来たのだ、という話にすり替えられていったのではないかと疑われる。私は、個人的には南伝仏教は三河に着いたのではないか、と考えているが、そこで話をすり替えられたことで武田神話、つまり改竄された諏訪神話を支持する東国系の圧力に耐えかねて、それは出雲神話である、として自分たちの話を手放さざるを得なくなったのではないか、と考えられる。尤も、出雲神話、という話はそれ以前からあることなので、そのあたりはもっと深く考察する必要がある。いずれにしても、その大きな梃子となったのが、この『家忠日記』だったのではないだろうか。
十二月には十二日に有岡城の戦いで緒川水野藤次が討死したとの知らせが入る。水野藤次は忠分で、家忠の舅に当たるが、話が動き出したとたん随分都合良く死んだように感じる。
水野氏というのは、戦国時代になって急に名前が出てくるようになったと言ってよく、そのはじめは、家康の舅、つまり於大の方伝通院の父親に当たる忠政であると言える。ここで、忠分と家忠の関係が忠政と家康の関係と相似をなすことがわかる。つまり、この『家忠日記』において水野藤次という人物が出てきたことから、その婿としての家忠を連想させる形で家康という存在が作られていった可能性がある。尤も、水野藤次が家忠の舅であるという話は『家忠日記』自体には出ておらず、家康のキャラクター造形において様々な可能性を同時進行させながら、最終的に舅であるということに落ち着いたのかも知れない。また、最初に水野藤次の名が出てきた後二行分の原本闕失があるとのことで、そこに何らかの手がかりになるようなことが書かれていた可能性はある。
水野藤次は山崎と言う言葉と一緒に出てきており、また後の本能寺の変の時に水野宗兵ヘ討死の噂、と言うのが書かれていることを考えると、信長と斎藤道三との婿舅関係にも影響していそう。そうなると、その話をもとにして山崎の合戦で討死した斎藤利三の娘を称する福こと春日局が家光の乳母となっていったことも考えられる。斎藤利三は稲葉良通の娘婿であり、『家忠日記』の著者が中院通勝であったとすると、ここで通の通字が、前後するとは言え、つながってくる。さらに稲葉良通は細川幽斎が古今伝授を受けた三条西実枝の娘婿に当たる。そしてその通のつながりは於大の方の伝通院という号にも現われているのかも知れない。