天正廿年
正月三日、殿様、宰相様、福松さま、をしへ五日ニ御鷹野御出候ハんとて、早々帰候、うらハに留候、とある。十三日、廿日に連歌、廿五日に知行五千石、下総小海川近所にて渡候、と、誰からとも言われず、しかも渡され、ではなく、渡し、と、自らが家臣に知行したともとれそうな書き方。二月一日、下総知行へ、をしより修理殿越候、下総知行へも原田内記をこし候、二日と三日の行間に「知行残り五千石の事ニ小田原迄酒井平右衛門越候。」とあり、知行の実効支配と催促に余念がない。廿日には矢はき迄越候、と突然矢作(?)とおぼしき地名が出てきて、やはり三河にいるのでは、と言う感じを受ける。
三月三日をし帰候、のとなりに、いせの、とある。二月廿七日に伊勢をし弥九郎越候とあり、をしの整理が付いたところで地名と人名との混乱を起こして、伊勢荘園的な物を一気に東国での既成事実としようという思惑ではないかと疑われる。北関東には簗田御厨が目立つ程度で、伊勢荘園は余り見られず、足利氏と深いつながりのある梁田御厨も、足利氏と三河とのつながり、そして三河に八名郡があることを考えると、三河のどこかを想定して書類上で設定されたものである可能性がある。つまり、伊勢の荘園は少なくとも北関東には戦国期以前、なかった可能性がある。それを過去からあったかのように既成事実化し、将軍権力とは別系統で手にしようとしていたかも知れない。
六日にかつさ知行分として十ヶ所二千石余りを記載。その中には、吉田之郷、戸田之郷といった東三河に係わりそうな名前、そして、後に深溝松平氏が吉田藩に入った時に開発を進めたとされる田尻のとなりにある平川という名もあり、少なからず三河と関わるように感じられる。九日にも知行相殘五千石、上總にて四千石余、上代近所にて八百石余、合せ五千石渡候、とあり、合せて一万石となった様子。ただ、誰から得た知行なのかの記載はない。上代は今の下総佐倉のそばか。十五日玄佐発句の連歌。
四月三日上総知行分候て身類衆へ渡候、賭して即座に身内で山分け。七日に、殿様、京都ヲつくしへ去る十七日ニ御出馬之由候、伊達、南部、景勝、さたけ御手につき候由候、ということで、いつから京都にいたのかはわからないが、知行が与えられた時に江戸にいたのか、と言う疑問がわき上がる。そして、伊達、南部、景勝、さたけというのは、いずれも奥州方面の大名とされ、その軍勢が動く時に、もし忍が現在の場所ならば、そのような交通の要衝の城主を動かすという事は考えにくい。仮に東山道から急に江戸方面に方向を変えて攻めてきたらどうするつもりなのか。天下惣無事が出ていると言っても、わざわざそのようなリスクを冒す理由はどこにもない。作り話をするにしても、軍事レベルにも至らない常識が欠如しているとしかいえない。四月八日夢想連歌、四月十八日家忠発句の連歌。
五月十八日家忠発句の連歌。廿五日正佐発句の連歌。廿八日、酔中候、の大書。六月一日高麗國繪津越候とある。出兵中の朝鮮を高麗國とは呼ばないと思われ、これは武蔵高麗郡のことではないかと疑われる。つまり、やはり『家忠日記』の筆者は関東に入っていなかったと言うことを示すのではないか。六月十三日、早くもかつさ知行より年貢こし候とある。六月半ば、グレゴリオ暦で七月終わり頃になるが、その時期に年貢とは、仮に早稲だったとしても少し早過ぎよう。前年の収穫を奪い取ったと言うことなのか。十五日家忠発句の連歌。十八日にも家忠発句の連歌で、「空にちかき 秋や川上 飛ほたる」と既に秋を詠っている。時期を間違えて後から写したのか、それとも何か他に意図があるのか。西洋でグレゴリオ暦の採用が始まったばかりと言うことで、暦すらも動かして何かやろうとしていた可能性もある。なお、深溝松平氏は後にキリシタンとのゆかりが深い島原藩主となっている。廿一日にも連歌で、ここでは「夏の空」と夏を詠っている。先の秋に何らかの意図があったと考えるのが自然だろう。廿五日にも連歌。七月、三宅弥(次)兵衞という名が三度も出てくる。廿一日連歌。
八月十五日、大政所死去、関白様つくしより御帰被成候、宰相様御上洛候とのこと。宰相様は秀忠という解釈が一般的なのだろうが、当時まだ十四歳で、宰相という実務色の濃い職名を名乗るとは思えない。そして、関白の母親死去という儀礼外交の場に出向くにしても余りに幼すぎよう。誰か別の人物を想定して書いていると考えた方が良いのでは。廿五日家忠発句の連歌。
九月九日家忠発句の連歌。十一日本光寺ニふる舞候、とあるが、小見川周辺にそのようなお寺があるのかは確認できず、千葉の市川にあるものは江戸中期の中興でその時にあったのかは明かではない。品川のものは一応あったことになっているが、深溝松平との関わりは見いだせない。本光寺は深溝と島原に深溝松平家の菩提寺としてあり、仮に總州にもあったのならば何らかの形で深溝松平とのつながりが残っていなければ不自然。それがないという事は、小見川は現在の場所とは違い、この段階でも『家忠日記』の著者は関東入していなかった可能性がある。十八日、廿二日、廿五日家忠発句の、そして晦日には正佐発句の連歌。
十月十九日、家忠発句の連歌。廿五日連歌。十一月三日正佐発句の連歌。十日連歌。廿一日むす子まうけ候。晦日江戸中納言様之けんきやう被越候。秀忠は九月九日に権中納言になったことになっているが、京都から江戸に戻った十月には宰相様と呼ばれている。人物違いか、日付の書き換えか、何らかのことがおこわ慣れている様子。十二月三日連歌。廿一日連歌。