このような強引な手法がすんなりと通るわけもなく、その反動は当然起こった。それが、厭魅事件である。天平勝宝6年(754)11月24日、薬師寺の僧行信が八幡神宮の主神(かんづかさ)大神田麻呂(おおがのたまろ)らと共謀して厭魅(呪詛)を行ったとして捕えられた。厭魅の理由・対象はすべて不明ながら、罰が下され、行信(元興寺・法隆寺に住した大僧都行信と同一人物であるか否かは定かではない)は下野国薬師寺に配流され、27日には大神杜女・大神田麻呂をそれぞれ官人の名簿から除名して本姓に戻し、杜女は日向の国へ、田麻呂は多褹島に配流された。禰宜・祝には他人を補任し、両人の封戸・位田および雑物は、すべて大宰府にしらべ収めさせた(続日本紀)。同7年(755)3月28日、宇佐郡百姓津守比刀の申請により、宇佐郡司、豊前国司の解によって、八幡大神の神託として、封1400戸、位田140町(大神上京の翌年に給わった大神分、比咩神分の合計)を八幡宮が受け取ったが、それは山野に捨つるようなものであるから、朝廷に返し奉るべし、ただ常神田のみは保留せよ(「続日本紀」「新抄格勅符抄」)、800余戸は「造営寺料に宛てよ」(「託宣集」等)、との神命を矯わった。その上で「汝等穢はしくしくて過有り。神吾、今よりは帰らじ。」として、大神は伊予国宇和嶺に遷った。建立縁起によると「宇和嶺は12か年なり。この間のご託宣は、彼の嶺よりここに飛来し、もって告げ示し坐す。」という。
この時期、中央政界では、大伴家持が天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京しており、同6年4月に兵部少輔として軍事権を握っていることが、この厭魅事件の処分に影響していると考えてよいだろう。しかし、それに対して仲麻呂側の反撃が起こる。ここで注目したいのが、天平宝字元年(757)7月に謀反未遂を起こした橘奈良麻呂という人物。諸兄の嫡男とされるが、もしそうであれば37歳の時の子となり、その行動の不思議さ、そして最後が続日本紀に記載されていないことも含め、その存在はもう一度見直されるべきだろう。聖武天皇がその存在を確認したのは、広嗣の乱の直前に諸兄の相楽にある別邸に行幸した時が初めてであり、それは諸兄の別邸であったから息子であるといわれて信じたという可能性はある。その後は上で見た通り、天皇と仲麻呂の事実上の二重権力体制となっており、天皇のあずかり知らぬところで人事が発令されていた可能性すらある。それを考えると、常に反阿部内親王の立場をとり、最後には長屋王や新田部親王の血を引く皇親たちを巻き沿いにして、自分だけは死の記録が残っていない橘奈良麻呂なる人物が、本当に反仲麻呂で謀反を起こしたのかということは精査されてしかるべきだろう。むしろ、これは仲麻呂の得意とする謀略であり、だからこそ仲麻呂が過酷な処分を主導したと考えるべきではないだろうか。さて、この奈良麻呂の変で、大伴氏をはじめとした非藤原系の勢力は大打撃を受け、その指導的立場にあったと考えられる家持も翌2年6月には因幡守として再び地方に赴くことになる。一方仲麻呂は、家持が都を去り、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位した後の8月に恵美押勝と称し、太保となる。この官名は仲麻呂が推進した唐風政策の一環であり、その点で万葉集を編纂した大伴家持や八幡大神の大仏参拝時に倭語で宣命を読み上げた橘諸兄とは大きな対照をなしている。また、この恵美押勝という名前は、唐突すぎてどういう由来なのか謎なのだが、一つの可能性として、仲麻呂こそが厭魅を繰り返している張本人であるという評判は覆い隠せないほどに広がっており、そして許された恵美家の印というのは、のちの和気清麻呂らの名前を変えさせたのと同じような、孝謙天皇にできた精一杯の皮肉だったのではないだろうか。