さて、では、最終的にP-3Cとなった次期対潜哨戒機(PX-L)の決定過程について見てみたい。朝鮮戦争終了後に、アメリカロッキード製の対潜哨戒機P2V-7が供与され、のちに川崎重工業がライセンス生産していたが、それを改造したP-2Jが昭和40年に予算計上され、45年から配備が始まっていた。その量産化が始まった頃から、P-2Jの開発を担当していた川崎重工業では、その後継機としてGK520の研究開発を始めていた。それは佐藤内閣で決定した第三次防衛力整備計画に沿ったもので、自衛隊創設以来の防衛力国産化の最先端かつ中心テーマであった。しかしながら、それは、ニクソンショックによる為替変動で整備計画に狂いが出て、「買い物計画」と呼ばれて国産化が割高にみられるようになっていた。それを受けて第四次防衛力整備計画は、通常ならば前回の計画が終了する半年程度前には大綱が定められるものが、第三次では41年11月にずれ込み、さらにこの第四次では年度末ギリギリの47年2月になってようやく大綱決定されたものが、47年度予算には反映されず佐藤政権が倒れた後に田中内閣になって10月になってからようやく閣議決定された。つまり、防衛力整備計画は佐藤政権潰しの武器としてずっと使われてきたのだ。その政治的背景はまた別に述べるとして、とにかく佐藤政権では防衛力全般に関して国産化の方針であったのが、円高に大きく振れたことで輸入圧力が強まっていたと言うことがある。
防衛庁では閣議決定があろうがなかろうが、計画は進める必要があった。そしてその一環として、1980年代後半から2000年にかけての運用が想定されていた次期対潜機PX-Lの国内開発を計画し、昭和46年にそのための設計前調査費を川崎に対し交付した。川崎では防衛省の計画に先んじてすでに45年には基礎設計をほぼ完了させており、46年には実大模型の制作を行っていた。確かにPX-Lの国産化自体は第三次防衛力整備計画には書かれてはいないが、レーダー搭載警戒機の研究開発は計画に明記されていた。その先行開発を進めていたら、突然計画から外される、などと言うことになったら、防衛産業などリスクが大きすぎて取り組むこともできない。そんな重要なことが政争の道具にされたのだ。政治的背景は後からまとめるが、とにかく調査費を支払ったときの防衛庁長官は中曽根康弘であり、そしてPX-Lを輸入に切り替えたときの通産大臣もまた中曽根康弘であった。
それはともかく、開発に多額の経費がかかることを危惧した大蔵省の反対を受け、47年10月9日の国防会議議員懇談会でPX-L国産化の白紙撤回と輸入を含めた再検討が決定され、国産PX-Lの開発は事実上中止となり、最終的には52年12月にP-3Cの導入が決定すると言う流れとなった。このときの背景について、当時防衛庁防衛局長を務めていた久保卓也は、50年に防衛事務次官となったが、コーチャン証言の直後の51年2月9日、「田中角栄首相の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。この久保発言により、後藤田が激怒し、その影響もあってか久保は7月16日には退官に追い込まれ、その後に田中角栄の逮捕に至ることとなる。つまり、まさにPX-Lについて揉み消しを図った上で、トライスターのみの疑惑での田中逮捕となったと言うことなのだ。
後藤田正晴は元内務官僚で、戦後に内務省から警視庁に移り、警察予備隊警備課長兼調査課長となり、警察予備隊の創設や自衛隊の前身となる保安隊の計画策定に従事している。日米新安保条約が注目を集めるようになり始めた34年3月6日には自治庁長官官房長となり、新安保条約締結後の37年5月8日に警察庁に復帰し長官官房長となり、その後警察庁長官となって70年安保や三里塚闘争に関わることとなる。そして47年6月24日に警察庁長官を辞任し、7月自由民主党総裁選挙に勝利した田中角栄に抜擢され、第1次田中角栄内閣の内閣官房副長官(事務)に就任した。内務省関係についてはまた別に書く必要がありそう。
一方相沢英之は、17年9月25日大蔵省に入省したが、10月1日には召集され陸軍に入り、18年11月に陸軍経理学校を卒業し、陸軍主計少尉。京城(現ソウル)で終戦を迎え、その後ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留を経て23年8月に復員し、大蔵省に復職して下京税務署長を務めるが、程なく主計局主査(逓信担当)として本省に戻り、48年には事務次官まで上り詰める、とされる。この経歴は非常に疑わしく、入省直後に招集されると言うのがまず不審で、それが事実ならば中曽根と同じように短期現役士官のような制度を利用すると考えるべきで、そうすれば陸軍経理学校というのもつながってくるが、短期現役士官は海軍の制度であり、それはありえない。また、ソウルで終戦を迎えてソ連に抑留というのもおかしな話で、抑留されるのならば満州か、少なくとも現在の北朝鮮にあたる地域で終戦を迎えていなければならないだろう。どこからおかしいのかわからないが、直近の経歴から辿ってゆけば、23年8月に復員し大蔵省に戻り、主計局に配属となったという部分で、23年の9月には当時主計局長であった福田赳夫が昭電疑獄によって逮捕されている。昭電疑獄については色々あるので、後から書くことができれば書くかもしれないが、とりあえずはここまでとする。少しだけ福田赳夫の関連する部分に触れておくと、第三次防衛力整備計画大綱決定時、そして本来ならば第四次が決定されるべきであった46年7月5日までの第三次佐藤内閣で共に大蔵大臣を務めていた。つまり、これらの計画策定時にずっと主計局で予算関係の実務を取り仕切っていたのが相沢である可能性があるのだ。
とにかく、もちろんのちに否定されたとはいえ、後藤田がムキになって怒った久保発言によれば、そんな二人が、防衛庁の現場を完全に踏み躙る形で田中総理と密室で定めたのが、PX-Lの白紙撤回だということになる。それもまた、短期的には為替が円高に振れる中で国産を輸入に切り替えれば予算の使い回しができる、という田中的な合理主義であると言えるのかもしれない。そしてこの構図はFX問題にも当然関わってくる。
なお、ロッキード事件が発覚した51年は、第四次防衛力整備計画の最終年で、本来的には第五次の策定がなされないといけない年であったが、結局第五次という形では策定できず、大綱だけを定めるという形となり、のちに中期業務見積から中期防衛力整備計画へと変わってゆくことになる。国防のあり方が政争によって大きく捻じ曲げられたその成れの果てがロッキード事件であったとも言えるのだ。
これだけでは全く文章としては表現しきれていないのだが、そしてこれだけ見れば、まあそんなこともあるね、という程度のことにしか見えないが、とにかくロッキード問題で直接的に隠されたPX-L問題は、とりあえずはこのようなことである。
参考文献
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋
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